非暴力平和隊・日本

非暴力平和隊実現可能性の研究【第2章 第4節(4)】

第2章 介入における戦略、戦術、および活動

クリスティーネ・シュバイツアー

2.4 大規模な民間ミッション

2.4.4 結果とインパクト

2.4.4.1 南アにおける選挙監視

NGOの視察ミッションのうちの二つ(EMPSA とNIM)がスェーデンチームにより評価されてきた。これはスェーデンの派遣組織の見地からこれらミッションを見たものであるが、これら二つのミッションをある程度国連のミッションと比較するのみならず、その結果とインパクトに関する一般的な情報を多く含むものとなった。KwaZulu/Natalにおけるその後のプログラムについてはこのような質の情報は無いが、そのレポートによると結果に関してはそれ以前のレポートと実質的な差は無かったように見える。以下の直接的(肯定的な)結果が列挙されている。

  • 全ての監視ミッションはそのプレゼンスと諸行事での監視と介入により、暴力の程度を上手く軽減し得た。これは有力者たちが平和監視のプレゼンスは制裁の危険を意味することを理解していたという事実に結びついている。
  • 市民一般と監視員が協働する教会とに対しての刺激と所謂広い世界へのリンクを与えることになった。
  • 平和監視者は異なる組織間の情報交換を増進することに寄与した。又NIMの場合には、監視員がNIMの能力とその正当性(市民社会建設)を強化することに寄与できたと感じた。
  • 彼らは又、彼らの出身国(スェーデン、但しこれは多分他の国をも含めるべく一般化できることであろう)のマスメディアと南アのプレスを使うことにより民衆の意見の形成に寄与した。

監視の短期的な成功は、監視員が全ての陣営とどの程度接触を持ち得たかということと現地有力者に関する十分な知識によるものであった。監視員の短期滞在の為か、あるいは余りに広範な地域をカバーせざるを得ぬ為かによって、これが欠ければ、彼らの介入の能力はそれだけ縮小された。

このような拠りどころの無さの為に、平和への仕事一般に関する監視のミッションの長期的なインパクトに対して疑問が投げかけられてきた。Ewald/Thornが会見したある協会の指導者たちは現地社会で長期的な能力を培い得なかったと信じている。

然しながら、スェーデンの評価者たちはEMPSA監視員たちを国連選挙監視員と比較して前向きに捉え、これを次の二つの面に関連付けている。

  • 時間:EMPSA監視員たちは少なくとも5週間滞在したのに対し国連側は2週間のみであった。これがNGOの監視員に現場の状況の中で自らを認知させるのにもっと時間を与えることになり、監視作業の継続性を付与することとなった。
  • スペース:国連監視員は平和監視員が受益組織と彼らの協力者を通じて勝ち得た拠りどころを持ち得なかった。この批判は国連のミッションに非常に批判的なInkathaメンバーが繰り返し言っており、彼らは会見の中で国連側は素晴らしい休暇と素敵なホテルで贅沢な生活をしに来ていると言った。

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2・4・4・2 ブーゲンビルの平和監視グループ

ブーゲンビルでの監視ミッションは概ね成功であったと考えられているようだ。 Boge曰く、TMGは全ての陣営、特に村落の人々の信頼をすばやく勝ち取り、それにより平和指向の風土を作り出すのに高度の貢献をした。Mission Osbornの指導者も同様に、“私の見るところ、TMGとPMGとは、彼らの働きを評価するのにどの様な物指しを使っても顕著な成功であった”と述べている。

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2.4.4.3 コソボ査察ミッション

KVMは非常に多様な結果の一例である。一方において、両陣営と対話し、暴力の地域的な勃発を封じ込めるよう説得することで何とか暴力を圧縮することは確かである。加えて、彼らのプレゼンスだけでも明らかにそれなりの効果があった。特にミッションの初期段階で、停戦は評価された。セルビア人とUCKのより穏健派の指導者たち双方が戦闘をすすんでで止めようとし、これが情勢の沈静化の機会を作り出した。避難民と強制追放者たちは戦闘の沈静化とともに多数が帰還した。Loquai:“KVMの初期を現在の視点から見るとき、もしKVMがもっと早く到着し、緻密に展開し全コソボをカバーしていたならどの様な結果になっていたか容易に想像がつくだろう“。再び状況が緊迫化した1998年の1月から2月においても、彼らの現地への到着は一般的に沈静化の効果を持っていた。

然し、査察官にも全ての暴力を封じ込めることは出来なかった。程度の差こそあれ、何時でも警官や市民が襲撃を受けていた。停戦は又、 ユーゴスラヴ側が撤退するとすぐにUCKが彼らの拠点に舞い戻って来るために利用されてもいた。2月の始めには、1998年の夏のセルビア攻勢の前に彼らが支配していた地域をほぼ支配したが、この時、彼らは以前より更に良く組織化され、武装されていた。UCKによる春の攻勢が警告されていた。

1月から2月にかけて、査察官自身に対する保安状況も悪化してきた。1月の半ばには、査察官二人が彼らの車が小規模な砲火の下に入った折に負傷した。彼らの移動も活動も制限を受けるようになった。2月の末には、8台の車がマケドニアからFRYに入る許可を拒否され、ロシアの査察官は彼の車の中に押し戻された。二人の査察官はセルビアの警官により銃口で止められ打撲された。1月には素手のKDOM要員がレストランで食事中に襲われると言うような暴行もあった。

然し、KVMに果たして成功の可能性はあったのだろうか。そのミッションはユーゴスラヴ側に戦争の脅威の下でのみ合意されたもので、航空機の動きを監視していたNATO機やマケドニアに待機するNATO選抜部隊のプレセンス、或いはActivation Order(戦時編成命令?)が解除されなかったと言う事実、などによるMissionの間にもその脅威は存続していた。一方、コソボ−アルバニア側は、紛争の国際化と特に国際軍のプレゼンスを常に(事実1991年から)予期していた為、軍事的介入を希望していた。彼らはこれを独立と言う政治目標に至る道と見做し、NATOが介入するかも知れぬと言う継続的な脅威は正に彼らの求めていたものであった。このような状況下では、KMVには基本的に成算は無かったが、彼らがその中で活動せざるを得なかった非常にネガティヴな枠組を考慮すると彼らが実際は現場でいかに上手くやったかはむしろ驚くべきである。

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2・4・4・4 エルサルバドルと東チモールにおける国連のミッション

引き続く人権侵害や特にFMLN側からのなかなか進展しない武装解除に関する多くの問題にも拘らず、ONUSALは一つの成功例と考えられており、その極めつけはニカラグアにおける不法武器隠匿庫の発見であった。平和協定は最終的に実現された。FMLNはやがて武装解除し政党へと変身した。以前の兵士は社会復帰させられた。計画通りに選挙が実施された。選挙への参加はロジスティックな又構造的な諸問題のために予想より随分と低かった(55%のみ)し、多くの違反も報告された。それにも拘らず、選挙結果は全ての陣営から受け入れられ、戦争が再発することは無かった。

Missionの権限は人権侵害に対する直接的な予防活動を含むものではなかったが、その非常に顕著なプレゼンス自体が全ての陣営に重要な象徴的な意味を提供してきたように見える。又注目に値するのは、人権議題の追求のために、ONUSALがその中立性を傷つけられ、その効力を発揮できなくなると言うこととは無かった。ONUSALのエルサルバドルにおける成功は又、紛争の両陣営の強烈な相互嫌疑と信頼欠如が国連に両サイドの調停者、保証人の役割を許したと言う事実にも起因している。
東チモールでの使命の惨憺たる失敗は、少なくとも部分的には紛争分析の悪さと状況の判断ミスに起因しているようだ。インドネシア側、特に東チモールの武装組織は、投票の十分予測される結果、即ち独立の決定を受け入れる準備は出来ていなかったことが理解されていなかったようだ。

第二に、暴力事件が発生していたにも拘らず、国連やNGOの監視員は本当に暴力に対処する心算は無かったように見える。この調査の他の例とは異なり、暴力への対処に関して真に系統だった企ては存在しなかった。その代わりに、誰もが投票の準備と管理に傾注していた。海外からの監視員たちは、内戦再発の場合、その結果の深刻さという脅しを十分利用し得なかった。その後の軍事ミッションの展開から見れば(七章参照)、後で分かったことではあるが、彼らは、人参と言わなくとも、自在に使える効果的な鞭を持っていたのに、と言うことが理解できる。

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