非暴力平和隊・日本

スリランカQ&A

基礎知識編

Q1.「スリランカ」というのはどういう意味ですか?

「スリ」というのは「光り輝く」という意味、「ランカ」は「島」という意味です。国名は1972年まで「セイロン」でしたが、同年の憲法改正の際に国名も変更されました。

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Q2.民族・宗教構成を教えて下さい

こちらをご覧下さい。(新しいウィンドウに図表が表示されます)

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Q3.「タミル人」ってどんな人?

タミル人は大きく「スリランカ・タミル人」と「インド・タミル人」に二分されます。スリランカ・タミル人は古くからスリランカの北部及び東部に住んでいた人々で、およそ250万人(全人口の約13%)。「インド・タミル人」は植民地時代に中央高地の茶、ゴムなどのプランテーションへの労働力としてインドから移住させられた人で、約100万人(5%強)です。「インド・タミル人」という呼称に対しては、「自分たちはもうインドとは全く関係ない」という理由から、「高地タミル人」など違う名称を用いるべきだ、と主張する人もいます。

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武力紛争に関して

Q4.どうして内戦がおこったの?

スリランカは1948年の独立前、イギリスの植民地でした。植民地時代、イギリス政府は多数派であったシンハラ人を優遇せず、例えば英語を話さないと政府関連の仕事に就けないなどの政策を取ります。Q2にあるようにスリランカではシンハラ人が人口の約7割を占めますが、そのシンハラ人の不満が独立後に「スリランカはシンハラ人のものだ」といったナショナリズムにつながり、それが他の民族であるタミル人などへの反感を生み、最終的に紛争になったということです。

また、内戦のもう一つのきっかけとして「ダブル・マイノリティ」と言われる問題があります。シンハラ人はスリランカ国内では多数派ですが、海を隔てたインド大陸のタミル・ナドゥ州にはそれ以上のタミル人が住んでおり、シンハラ人の心の中には常に「多数派のタミル人により、自分たちは圧迫されかねない」という恐怖心がある、と指摘されています。

スリランカは1931年に男女普通選挙の実施が始まりましたが、これ以降多数派であるシンハラ人のナショナリズムに訴える政治家が徐々に現れるようになります。1948年には「インド・タミル人」を含むインド系移民の国籍が剥奪されたのに続き、翌1949年には選挙権も剥奪されるという事件が起こりました。1956年には「シンハラ・オンリー」政策を掲げたバンダーラナーヤカ氏率いる人民統一戦線が選挙で勝利し、その後56年と58年にわたって大規模な暴動につながりました。また、1972年公布の新憲法ではシンハラ語を公用語とし、またシンハラ人が大多数の仏教に特別な地位を与えると明記されており、「シンハラ・ナショナリズム」をあおっていきました。

1977年、81年、83年にはシンハラ人によるタミル人への暴動が起こります。1983年には「黒い7月」と呼ばれる暴動で、2,000人から3,000人とも言われる死傷者が出ました。これらの暴動がLTTEなど武力行使を辞さない団体へのタミル人の支持を強め、20年間で6万5,000人といわれる死者を出す泥沼の内戦へとつながってしまいました。

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Q5.「LTTE」というのは、どういう組織ですか? そこから分裂した「カルナ派」は?

「LTTE」とは、Liberation Tigers of Tamil Eelam(タミル・イーラム解放のトラ)の略称です。「イーラム」というのはタミル語で「スリランカ」という意味です。トラはもともとインド南部で栄えていたタミル人の王朝がトラをシンボルにしていたため、シンハラ人王朝のシンボル「ライオン」に対抗する意味で付けられたと言われています。1972年にその前身であるTamil New Tigers(タミルの新しいトラ)が結成されました。1976年にヴェルピッライ・プラバーカランが指導者となった時、現在の名称に改称しました。

LTTEはタミル人による「ホームランド」の設立と自治の実現を掲げ、自爆攻撃も含む攻撃を続けてきました。1977年、81年、83年とシンハラ人によるタミル人に対する暴動が相次ぐ中、タミル人の中で支持基盤を着実に伸ばしていきましたが、2004年に同組織内のカルナ大佐を中心とするメンバーが離脱、LTTEとは独自の活動を開始しました。北部中心のLTTEの運営方針に対し、東部地区の不満が高まったのが分裂の一因と言われています。またLTTE内でも生まれやカーストなどによる差別があり、それが分裂につながったのだ、という指摘もあります。「カルナ派」と呼ばれるこのメンバーは政府軍と非常に深い結び付きがあると言われており、事実上の政府の私兵に過ぎないとも言われています。

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Q6.国際社会は内戦をやめさせるためにどのような取り組みをしましたか? 日本は?

国際社会の中で、和平の中心的役割を果たしているのはノルウェーです。2002年2月22日、同国政府の仲介でスリランカ政府とLTTEの間で停戦合意が結ばれました。その後、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、アイスランドの北欧諸国によるスリランカ停戦監視団(Sri Lanka Monitoring Mission:SKMM)が結成され、停戦の監視に当たっていました。しかし、2006年5月にEU政府がLTTEを「テロ組織」として認定した後、LTTEはEU加盟国のSKMMメンバー派遣を拒否したため、2006年9月以降はノルウェーとアイスランドのメンバーのみによって活動を続けています。

地域の大国であるインドはスリランカに面したタミル・ナドゥ州に多数のタミル人がいることから一時期はLTTEを支持してきましたが、1985年から和平に関する協議をスリランカ政府と行いました。1987年以降スリランカに治安を維持するため「インド平和維持軍」を派遣しましたがLTTEの間で交戦状態になり、またそれをきっかけに1991年、ラジブ・ガンディー元首相がLTTEメンバーにより暗殺されるとLTTEに対する支援を打ち切りました。

アメリカ、EUともに現在はLTTEをテロ組織として認定し、積極的な関与はしていません。日本は明石康元国連事務次長を政府代表に任命し、和平協議や復興会議を東京で行うなどの取り組みを行っていますが今の所、これといった効果は挙げていません。

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Q7.現在の政界の勢力図はどうなっているの?

こちらをご覧下さい。(新しいウィンドウに図表が表示されます)

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Q8.スマトラ島沖地震による津波が紛争に与えた影響は?

2004年12月26日、インドネシアスマトラ島沖で起こった津波はスリランカにも甚大な被害を与えました。津波は政府の勢力下にあるスリランカの南部のみでなく、LTTEの影響力の下にある東部と北部にも大きな被害をもたらしました。政府とLTTEは国際社会からの復興災害資金を配分を協議するための共同メカニズム構想(P-TOMS)を立ち上げました。しかし、最高裁がその一部は憲法に違反する、という判決を出したため、結局実施はされていません。

シンハラ人、タミル人、イスラム教徒などそれぞれの勢力に平等に援助を行うというのは、実際はとても難しい問題です。インドネシアのアチェのように、津波による復興の過程で和平に向けて大きく前進した地域もありますが、スリランカは残念ながら大きく事情が異なっています。

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Q9.これから内戦は終結に向かいますか? それとも、まだまだ続きそうですか?

2002年に正式に始まった「停戦」は、現在形だけのものになりつつあります。政府軍のミサイルなどによる攻撃、LTTEによる自爆攻撃は現在も起こっており、NPでも取り組んでいる少年の徴兵問題や言論の自由に対する圧迫も北部、東部を中心に起こっています。2006年12月にはLTTEの和平推進派、バーラシンハム氏が死去しました。

このような情勢で、希望を持てるニュースもいくつかあります。例えば2006年10月23日に与党SLFP(スリランカ自由党、Q7参照)と最大野党のUNP(統一国民党、Q7参照)は「国家的課題」に対して共に取り組む姿勢を確認し、今後政府が本格的な和平交渉に臨む土台が出来たと評価されています。また、結果的には物別れに終りましたが、同年10月28日にはスイスのジュネーブで和平交渉が再開されました。

この内戦が終結するためには今後の和平交渉の進展が一層重要になってくるでしょう。そのためには国連や国際NGOなど様々な期間による和平へ向けた取り組みへのサポートも必要でしょうし、なによりスリランカ国内の政府、LTTEを含む全ての当事者が真剣に和平に取り組む事が必要です。NPはその活動を通して、スリランカ人による、スリランカ人のための和平に向けた取り組みを、国際的プレゼンス、護衛的同行などの手段を通じてサポートして行きたいと思っています。

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■参考資料:
川島耕司 『スリランカと民族:シンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団』 明石書店、2006年。
毎日新聞外信部編 『図説 世界の紛争がよくわかる本』 東京書籍、2004年。