非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(22)2004.5.23

スリランカ通信22号/誰が助けられているか・ありがとう!

2004年5月23日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさまこんにちは。ときおりやってくるモンスーンの雨と風で、夜中に目を覚ましては、そのあまりの激しさに少し怖くなりしばらくの間眠れない夜を何日間か過ごしています。先週はRitaが留守(6月中旬までヴァルチェナイ)で、Frankが休暇で不在、マータラにはわたしひとりでした。ひとりは自由気ままで(?)、ほかの人たちが心配するような寂しい気分には決してならないのですが、こうした自然の驚異と、ほとんど毎晩(それも2〜3匹)姿を現していたゴキブリには、お手上げ状態です。昼間ならまだしも(ゴキブリに関しては、昼に現れることは期待しませんが)、どちらも夜遅くやって来るのが好きなようで、「たすけて〜」と叫ぼうにも、助けてくれる人は無し…。息を呑んで過ぎ去るのを待つか、あるいはこのときばかりは『非暴力』を忘れて格闘するか、ふたつにひとつです。(もちろん選択はどちらの場合も決まっているのですが…。)

そういうわけで、あまり好ましくない訪問もありましたが、ひとりのわたしを心配して電話をくれたり、イベントに誘ってくれたり、訪ねてきてくれる友人たちもいて、この9日間は本当に支えてもらっているのはわたし(たち)のほうなんだなぁと感じる日々でした。とくに、わたしの分まで昼食持参で来てくれたり、5日間毎日2時間のシンハラ語レッスンでは、地元産の珍しい食べ物・お菓子・飲み物を出してくれたりと、食べ物には事欠かない状態で、とくにひとりでいると食事を作るのが面倒になるわたしを、見透かされたようでした。逆にこの9日間で体重が増えたかもしれません…。

そこで思い出したのは、わたしの好きな哲学者でライターの鷲田清一さんの著書「弱さの力」です。わたしは決してスリランカの人々を、そしてたとえばパレスチナの人々を『弱い』あるいは『弱者』だと思ったことはありません。わたしから見れば、彼らほど『強い』人々は日本にはいないのではないかとさえ思います。でも、一般的に見れば、彼らは『助けられる』べき人々であって、ODA予算であるいはほかの方法(武力も?)で『援助する』日本やその他先進国、あるいはこの非暴力平和隊でさえ、スリランカや紛争地に出向くのは、彼らと彼らの社会を変革する(make some change)が仕事だと捉えています。でも、実際その地に住めば、わたしたちは所詮『外国人』であって、どこで何が手に入るか、どこの病院に行けばよいか、誰がシンハラ語を教えてくれるか…そういった些細なことから大きなことまで、なにひとつ現地の人々の協力なしにはことが進まないのが現状です。

つまり『弱い』のは誰かという問題は、あくまで見方の問題であって、たとえ経済的に、あるいは身体的に、数的(マイノリティー)に、そのほかさまざまな理由で『弱者』であろうと、それはある一面からその人たちを説明しただけであって、それがすべてではないということです。『力』はどちらの側にも、誰にでもあって、だからこそ援助というのも、一方向では決してありえない。そうであれば、援助や助け合いがほんとうに双方向になったときにだけ、おそらく共生社会は実現できるのでしょう。そしてまたその社会は「あなたのために何か特別なことをする」というよりは、「わたしがいて、あなたがいる」という何の変哲も気負いも気取りもない状態になったときこそ、生まれるのではないかと思います。さらに、もしその「わたしがいて、あなたがいる」というシンプルな状態が真の『プレゼンス(そこにいること)』であれば、こんな(嵐やゴキブリに怯え、心配して食べ物を持ってきてくれる友人がいるような)頼りないわたしでも、「ここにいてよかったんだ」とひとりで勝手に納得していました。

こちらでお会いした瞑想の先生が、わたしの大好きなティク・ナット・ハン(多くの著作をもつフランス在住のベトナム僧)が書いていることばを教えてくれました。「皿を洗うにはふたつの方法がある。ひとつは、ただ皿を洗うこと。もうひとつは、きれいにするために皿を洗うこと」考えてみれば、わたしたちはいかに多くの時間きれいにするために皿を洗っていることでしょう。あるいはもっとひどいと、きれいにするために皿をあらいながら、明日の昼食のことを考えているかもしれません。食事をしながら、テレビを見たり、新聞を読んでいます。ただ皿を洗うこと。これほど難しいことはないのかもしれません。でももしわたしたちが、昇進するために仕事をするのではなく、大学に入るために勉強するのではなく、国際的地位と面子を確保するために援助をしたり自衛隊を送るのではなく、ほんとうにそれ(仕事・勉強・そこに住むこと)が好きで、そうするのであったら…?あるいはそれが好きでないと気づいて、そうしないという選択をとったら…?そのときわたしたちは、そして世界は少しだけ軸を変え、じぶん(と地球)のからだと心の中心を見つけられるかもしれません…。

昨日誕生日を迎えるにあたって、その前の晩「よし、明日は大掃除の日にしよう!」と心に決めました。当日は運良く(?!)6時間も停電していたので(誕生日に停電なんて、日本では頼んでもプレゼントされません!)、たっぷり半日かけて、オフィス、バス・ルーム、台所、バルコニーを掃除(掃き掃除、モップ、タイル磨き、拭き掃除)しました。掃除するためだけに掃除していたかどうかは今となっては思い出せませんが、お世話になっているものたちへの感謝の気持ちを込めて、掃除しました。(そしてもっと頻繁に大掃除すべきだと反省しました。もちろん日常の掃除はしていますが…念のため。)そしてその日の最後に(2度目の1時間半の停電の後)、今度はお世話になっている人々への感謝を込めて、ありがとうのメールを書きました。英語のものを先に書いて、そこで力尽きて(前日夜の嵐でまた眠れなかったため)、日本語の分が書けませんでした。なので、一日遅れてしまいましたが、きょうみなさまに感謝の気持ちを込めて、「ありがとう」のメールを送らせていただきます。こんな大切なことを、メールの最後に書くという失礼をお詫びします。

日ごろからお世話になっているみなさん、ありがとう。
お会いしたこと無いみなさん、そこにいてくれてありがとう。
ここ(どこでも)にいられてほんとうによかったと、心から思う毎日です。

それではみなさま、お元気で。こんな長い文章を最後まで読んでくださって、もうひとつありがとう!

大島みどり

△スリランカ通信(22)2004.5.23/TOPへもどる

前号を読む|次号を読む