非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(25)2004.6.20

スリランカ通信25号/お金持ちと民主主義?

2004年6月20日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさま、こんにちは。

上座部仏教徒が大多数を占める南部スリランカでは、仏教に関係・由来する儀式や行事が人々の日常の中に多数あり、、こうした際にわたしもお呼ばれすることがあります。わたしの頭を見ながら訊ねてくる、「あなたは仏教徒か」という質問と「日本にはこういう儀式・行事はあるか」という質問が、どう返答したらいいのか、わたしをたびたび悩ませます。でもその話はまた別の機会にするとして、きょうはそうした機会に考えさせられたひとつの話を聴いていただこうと思います。

先日近所で行われたピリットという仏教儀式(行事)に、大家さん(の奥様)が誘ってくれました。ピリットを英語で説明できず(そしてわたしもシンハラ語がわからず!)、それでも「きっとあなたは気に入るから来なさい」という誘いに、なんでも興味津々のわたしは夜の8時彼女にくっついて行きました。ふたを開けると、それは新築(改築)された家のお祝いの儀式でした。ピリットという言葉自体は、その行事ではなく、仏教の経典を唱えることを意味するらしいのですが、ピリットを行う場として、こうした新築のお祝いなどがあるようです。 (スリランカの古都キャンディが発祥の) キャンディアン・ダンス(と音楽)の演技・演奏が披露され、お菓子や食事が振舞われ、15名ほどのお坊さんがピリットを唱えに来られました。わたしは夜中の12時半近くまでいたのですが、ピリット(お坊さんの経典読経)は朝早くまで続くそうです。親戚・近所の人々などがおそらく百人単位で来ていたようです。もちろん長居をする人はその中の何割か程度のようですが。

そこで近くの学校で英語を教えているというわたしより少し若いくらいの女性にお会いしました。彼女はピリットや仏教の行事・教えなどについていろいろと説明してくれていたのですが、その中で「この家はどこどこで商売をしていて、とてもお金を稼いでいるの。だからこうしてピリットをやって、親戚や近隣の人々に食事を振舞い、儀式をやることで、そのお金を社会に還元しようとしているの。稼いだお金はじぶんのためにとっておくのではなくて、(社会に)返すというのがよいことで、仏教の教えでもあるから。世間には貧しい人々もたくさんいるでしょ。だから、彼らに施し(慈善)をするためにも、お金持ちは必要なの。もちろんお金持ちでも、こんな(慈善)ことをする人々ばかりではないけどね…。」彼女はことばを止め、わたしをまっすぐ見つめました。けれど、「お金持ちは必要なの」ということばに動揺したわたしは、何と返答してよいのかわかりませんでした。そうか、この社会はこうした慈善を行うお金持ちが必要なのか・・・。ここでは人々がよく家人の何回忌という際に慈善昼食会(日本語で何と訳せばいいのかわかりません。英語のalms givingです)を行うのも、こうした背景があるのです。(実はさらに翌日わたしはシンハラ語の先生の家のalms givingに呼ばれていました。)

慈善をすること自体はよいことに間違いありません。来世のために、あるいは極楽浄土(涅槃というべきでしょうか)へ行くために、この世で徳を積むというのは、上座部・大乗の違いを超えて、仏教の教えなのでしょう。(これからもっと勉強します。)そうであれば、こうした慈善を施すお金持ちのシンハラ人は、ほんとうに信心深いということになります。でも・・・とわたしは立ち止まってしまいます。そのためにお金持ちは必要なのか・・・?

東京でもたくさん見かけるようになった浮浪者(ホームレス)の人々は、スリランカでも問題になっています。日本では、それでもお金を無心する人々はほとんど見かけないように思いますが、こちらでは(そしておそらく世界のどこでも)、彼らの多くは、道行く人々に手を差し出してきます。わたしはその彼らにお金を差し出すことはほとんどしません。理由はいくつかありますが、お金を渡すことが彼らを助けることになるとはあまり思えないこと(たしかにそうなることもあるのでしょうが)と、彼らにお金を与えることが、まるでじぶんを彼らより上の立場においているような気がして、ためらってしまうのです。でも、かといってわたしは彼らのためになることをほかにやっているわけでもないわけで、そうした『お金も渡さない』『彼らのために何か特にしているわけでもない』という二重の罪悪感のようなものが、彼らに出会うたびにわたしを襲います。それでは、わたしは何をすればよいのだろう?もちろん貧困の撲滅というような問題意識を理念にして、活動するNGO/NPO、国際的組織もたくさんありますが、いまのわたしは、そしてわたしたちの多くは、それ以外のことをテーマ/仕事として選び生きています。そうしたわたしたちにできることはなんなのでしょう?

わたしがいま持っている答えはひとつだけです。それは『できるだけぜいたくをしない』という、なんとも頼りない(つまり積極的でなくより消極的な)生き方です。わたしはこれが正解だとも、誰かに勧めようとも思っていません。ほかにもっとよい答えがあれば、ぜひ知りたいと思っています。そして『できるだけ』ということばが、かなりあいまいなもの、甘いものだということも、重々承知しています。どうがんばっても、わたしはマータラの橋の上でこの暑い日差しの中、一日中座って物乞いをすることはできません。たまにはチョコレートも食べたいし、ここでは普通の人々は持っていないパソコンも使っています。(でもみんなが持っているテレビはありません!)それでも、できればわたしはここでお金持ちではなく(彼らは外国人はみんなお金持ちだと思っていますし、もちろん料金を高く言ってくることもたびたびです)、市井の人々にできる限り近いかたちで生活したいと思います。そうすることで、彼らの思いや考えや態度、行動を少しでも理解したいと思っています。それが標準的な生活水準の人々であっても、あるいはホームレスの人々であっても、彼らとまったく同じ生活をしないまでも、似通った生活をすることが、人々と人々のこころに近づく唯一の手段のような気がします。お金を与え、施しをすることがたとえ徳を積むことになっても(そして与える側にある程度の喜びと満足感を与えることになっても)、それではいつまでたっても、お金持ちはお金持ち、ホームレスはホームレスです。彼らの間を渡す橋は慈善を行う際だけの、一回限りの泥の橋です。

が、それがいま「お金持ちは必要なの」と言われ、どう返答すればよいのかわからなくなりました。もしかしたら、「お金持ちになって人々に施しをして徳を積む」のも、「質素に生きる」のも、どちらも答えかもしれません。どちらでもよいことなのかもしれません。それでも、わたしはここでまた、ゴール(マータラから1時間西へ行った大きな街)の日本山妙法寺のお坊さんが言われたことばを思い出します。カースト制度のことを話していたときのことです。「昔は床に座っている人々が、椅子に座りたいとは思わなかった。」なるほど、と思いました。いまは誰もが椅子に座りたいと思います。誰もがテレビや電話を持ちたいと思うし、持っていないと「どうしてわたしは持てないんだ」と声を出します。賃金の格差を訴え、平等である権利を訴えます。それが植民地時代に西洋からこの国にもたらされた民主主義です。(もちろん植民地という体験を経ずしても、いまは世界に広がっています。)

誰もがお金持ちになりたいと思い、そうなる権利があると主張する民主主義(個人主義?)のスリランカと、いまだにさまざまな問題の背景に隠されているカースト制度を持ち、「お金持ちは施しをする」ことを、当然のことと認識(期待)するスリランカ。そのどちらもが、まさしくいまここにあるスリランカです。わたしはそのどちらも、そのあるがままの姿を、否定したり非難することなく受け入れて、再度じぶん自身を見つめながら、ここで生活していきたいと思います。

スリランカとスリランカ人、返答に困る質問やコメントに出会うたびに、なかなかスリリングでチャレンジングな機会を与えてくれる国・人々だと冷や汗をかきながら思っています。

大島みどり

スリランカ通信25おまけ(2004年6月21日)

みなさまこんにちは。

毎度お騒がせしています。昨日通信をお送りしてから、夜の食事の際に(食べ終わってから!)読んでいたLTTEに関する記事の、国際的な経済支援(たしか昨年6月の東京ドナー会議)のところで、ふとじぶんが書いた文章を思い出しました。それで、どうしてもSL便りに追伸を書かなくては、と思ったのですが、なんだかあまりに疲れていて、昨晩は再度コンピュータに向かう気力・体力もなく、(こんなことはあまりないのですが)10時前に寝てしまいました。

それで、思ったことは、お金持ちと施しを受ける人々の関係は、例えば先進国と援助を受ける途上国と同じじゃない、ということでした。つまりそれが良いとか悪いとかという議論の前に、そうした『援助』を(おそらく)必要とする国々、人々がいて、そうした『援助』を受けることは大歓迎だし、もしかしたらそれを当然と考える人々も確かに居る、という事実です。もちろん『援助』がほんとうに必要か、必要ならば、それは『お金』なのか『モノ』なのか、『技術』なのか『人材育成』なのか、そうした観点からも考えなくてはいけないことはたくさんあると思います。(すでにその点に関してお返事してくださった、協力・支援分野での大先輩もいます!)そしてそれは、『援助』をする側だけでなく、『援助』を受ける側も一緒に、とことん考えなくてはいけない視点だと思います。

そして、いまここにその『援助』(この場合は、とくに『食事を与える』慈善行為を考えていたのですが)について、「どうかなぁ?」と少し疑問を持つわたしがいます。昨晩最初に思ったことは、「でも、食事や援助をもらう人々がそれをありがたく思う(当然と思うのはどうかと思うけど)のなら、それはそれでいいんじゃないか」「それを何もしないで、『えらそうに見える』とか『彼らの気持ちを分かるためにぜいたくをせずに生活してみる』などと言っているわたしのほうが、よっぽどかっこをつけているのではないか?」という反省でした。じぶんのことを棚に置いて、わたしは他人を裁いてはいないか?ということです。

おそらくこの問題に正解はないのかもしれません。民主主義を誰もが叫びながら、世界のいたるところで、貧困と飢餓は問題になっています。おそらくどの国でも、貧富の差は広がるばかりです。おそらく「これはダメ、あれは良くない」と言っている場合ではなく、総力をあげて、あらゆる方法を用いて、この問題に対処していかなくてならないのでしょう。新聞を見たら(あまり確かではないのですが)、明日は国連の世界食糧プログラム (World Food Program) の「貧困・飢餓撲滅」キャンペーンの日のようですね。スリランカから、そして世界中から、貧困と飢餓がなくなる日を願って、できることをしていきたいと思います。

おまけが長くなって、ごめんなさい。

大島みどり

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