非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(26)2004.7.6

スリランカ通信26号/NPとして、外国人として(前半)

2004年7月6日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさま、こんにちは。日本の梅雨はそろそろ終わるころでしょうか。こちらもモンスーン・シーズンの終わりらしいのですが、ときおりほんの10分あるいは短いと2−3分ほどだけ雨が強く降ることがあります。風も強いので、曇っていれば、さすがに暑さは少ししのげます。

きょうはわたしたちの地元の知り合いの方の話を通して、少し考えたことを聴いていただきたいと思います。(長くなったので、2度に分けて、お送りさせていただきます。)仮称Aさんは、彼自身の専門はまったく別のものなのですが、子どもたち、それも特に金銭的に恵まれない子どもたちに英語を教えています。奥様が小学校の先生なので、彼自身は、じぶんの子どもの世話を見ながら、近隣の村々に出向いては、少額の謝礼で英語を教えています。お金のためだけでなく、じぶんの生活・生き方を充実・満足させ、社会に貢献したいと常々話していて、その一途さは、なかなかほかの人々には見られないほどです。

彼がわたしたちのところへ来る理由は大雑把に言ってふたつあるのですが、ひとつは、彼の専門の太陽エネルギーあるいは水質改善の技術を生かせる仕事の情報を得るため、もうひとつは、英語教育を媒介とした彼の(いま行っている)活動に、わたしたちをどうしても引っ張って来たいと考えているからです。

まず第一の彼の希望は、わたしたちNPが環境団体ではない、という点からして、「NPの仕事として」彼をサポートできないのは、誰の目にも明らかなはずなのですが、どうも彼はそのあたりをあまり理解してくれません。アポなしに、週に2度程度訪れ、電話もしょっちゅうかけてきます。でも残念ながらわたしたちがこの件で彼をサポートすることはとても難しいのです。個人的にはインターネット・サーチをしたり、環境問題や農業問題を扱っている団体や個人に会ったときに、情報を彼に渡すようにしていますが、そこまでが限度です。

そして問題は、第二の彼の希望(野望)です。昨日も彼がやってきたときに、彼は「外国人のあなたたちが貧しい村の子どもたちのところへやって来て、本をあげたり(彼が用意した本を「手渡す」という意味)、一緒に英語の歌を歌ったりすることが、彼らにとってはとてもうれしいことなのだ…」というようなことを、延々と話していました。それを聴いていたわたしたち(わたしともうひとりのチームメイト)は、同じような感慨を持ちました。「わたしたちは特別な種類の人間でもなんでもない。」彼が用意した本をなぜ、わざわざ外国人のわたしたちが手渡さなくてはならないのか?わたしはじぶんがコスチュームに身を固めたサンタクロースになっている様子を想像していました。

わたしはこの2ヶ月あまり、こうした彼の(悪いことばで言えば、執拗なまでの)熱意に、かなり疲れてしまったのですが、どうしたら彼が、まず第一にわたしたちの任務が環境問題でないこと、そして国際親善大使でもないことを理解してくれるか、頭を悩ませています。もちろん世界の、そして社会の問題はすべてつながっているので、「NPは平和問題を扱う」とは言え、そこから広がる主主雑多な問題を無視するわけにはいきませんし、またできる範囲で、わたしもそこから派生する問題に向き合っていきたいと思っています。でも、わたしが個人的に活動しているならともかく、組織の一員として活動している以上、そこには限度があるのです。

それにもましてわたしが危惧し、疑問に思うのは、「外国人=お金、モノを持ってくる(あるいは持ってこないにしても)救世主」というようなイメージです。わたしはわたしたちの知り合いのAさんを責めるつもりはまったくありませんし、考えてみれば、ユニセフでさえ、あるいはどこの国の皇室でさえ、訪問先で孤児院や病院や身体障害者の施設を巡っては、国際(国内)親善をしているのです。そのこと自体は、決してマイナスなことではないのだと思います。要は、その行為を、行う人が、受け手が、そして周りが、どう捉え、解釈し、活かしていくかということなのだと思います。昨日リサーチをしていてある団体のプロジェクト概要に書かれていることばを見つけたのですが、「わたしたちはあなたたちを忘れていない。あなたたたちが必要なんです」というメッセージを相手に伝えることは、とても大切なことです。わたしたちひとりひとりがジグゾー・パズルの一片であるこの世界では、どの一片(人間)が欠けても、ジグゾー・パズルは完成しません。そうしたメッセージを、特にこれからの世代の子どもたちや、マイノリティーであるが故に多くの苦労を強いられている人々に伝えることには、ほんとうに多くの意味があります。

それでも、年に一度来るサンタクロースひとりでは、その大切な意味(モノでなく行為としてのメッセージ)を伝えきることはなかなかできません。わたしのこの通信を読んでくださる方々の中にも、里親運動、フォスター・ペアレンツ、その他さまざまな活動をとおして、世界の子どもたちの生活や教育を支援していらっしゃる方々がいます。そうした方々の並々ならぬご尽力や活動を知っていれば、一日サンタクロースなど、わたしには到底できるものではありません。

それではどうしたものだろう?昨晩またいろいろと考えてしまいました。そして、この問題が単にわたしたちとAさんの関係で終わるのではなく、もっと大きな枠の中に組み込まれていることに気づきました。わたしたちマータラ・チームとスリランカ南部社会との関係、マータラ・チームとNPスリランカ・プロジェクトの関係、その両方を同時に見ていかない限り(あるいはほんとうは、もっと大きな枠組みがその外側にあるのでしょうが)、事は簡単には片付かないような、そんな気がします。そのあたり、どのくらい上手に説明できるかわかりませんが、SL便り27で試してみたいと思います。どうぞお付き合いください。

大島みどり

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