非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(33)2004.10.17

スリランカ通信33号/ジャフナへの道のり

2004年10月17日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさまこんにちは。大変ご無沙汰してしまいました。

きょうお送りするSL便りのナンバーをチェックするため前回の便りを探したら、9月9日の32が最後だったということに気づき、それにしても音信不通が長すぎたことに、じぶんでショックを受けています。この間みなさまがお元気にご活躍されていたことを願っています。

この5週間のことを書くのに、どこから始めていいのかまったくわかりませんが、まずは9月のジャフナへの移動について、書かせていただこうと思います。たぶんこうした経験は、日本では想像もできないようなものだからです。

さて、話は9月にさかのぼりますが、ヴァルチェナイからRitaが(一時的に)マータラに戻り、8月にFTMとして加わり、マータラに赴任することになったKathyが各フィールド・オフィス訪問を終えてマータラに到着し、そして休暇中だったFrankが戻ったのが、すでに9月14・15日だったため、わたしがマータラをRitaと発ったのは、9月17日でした。出発前々日の15日夜には、わたしたちが1年間かけておつきあいさせていただいた関係者の方々を招いて、簡単なパーティを開きました。彼らに別れを告げるのは、とても悲しいことでした。

ところで、スリランカの地図などをお持ちの方はたぶんあまりいらっしゃらないと思いますので、簡単にご説明しますと、マータラはスリランカの島のほぼ最南端にあります。そしてジャフナは、この島の最北部にある町です。最北端へはまだ数(十?)キロありますが、それでも町としては最北部にあり、ここの支配権をめぐって、スリランカ政府とLTTEが長年争ってきたところでもあります。2002年の和平協定(Cease Fire Agreement)以降は政府が支配していますが、それでもいざ再度政府・LTTE間に問題が起これば、この町の掌握が大きなポイントとなるところです。

コロンボからジャフナに向かうA9という幹線道路は、途中キリノッチ(Kilinochchi)という町の周辺で、LTTEの支配地域に入ります。キリノッチにはLTTEの司令部が集中しています。つまりジャフナに陸路で行くためには(イスラエルとパレスチナの関係に見られるように)チェック・ポイントを4箇所(スリランカ政府領域出口→LTTE領域入り口→LTTE領域出口→スリランカ政府領域入り口)、それも最終ポイントを夕方5時半までに通過しなくてはならないため、どうしてもコロンボからの出発は朝の6時になります。

そしてそのチェック・ポイント通過のための書類や手続きは、慣れていないと大変面倒なため、今回わたしのジャフナ移動に付き添うため、ジャフナ・チームのSusan(スーザン、フィリピン)が、わざわざジャフナから17日にコロンボまで来てくれました。そして夜遅くコロンボに着く彼女のために、18日は1日休みをとり、スーザンとわたしは19日の朝6時にシンハラ人のドライバー付きのバンでコロンボを出発しました。

もちろんわたしはすべての荷物をマータラから運んでいたので、LTTE領域に入る際のチェックでは、すべての荷物を開けさせられました。カバンから何から、中身はすべてめちゃくちゃにひっくり返され、むりやり戻され、デジタル・カメラのコンパクト・フラッシュは土の上に落とされ、挙句の果てに電源のボルテージを変換するコンバータやDVD/CDドライブ(わたしのコンピュータは外付けのため)などに税金をかけると言うのです。何年も使っている個人の所有物に何で税金がかけられなくてはいけないのか、心底憤慨し抗議しましたが、そんなことは彼らにとっては関係ないことです。

スーザンも、個人の持ちものを税金の対象にされた体験は初めてのようで、しばらく押し問答を繰り返しましたが、結局キリノッチのLTTEのNGO担当者からわたしたちが書類を受けとり、チェック・ポイントに再び戻る(それも2週間以内に)という結論に達し、しぶしぶDVD/CDドライブをその場に置いて、ジャフナへの道を再びたどることにしました。つまりわたしの初めてのジャフナへの道のりは、その実際の距離とかかった時間以上に、精神的にハードで納得のいかないものとなったわけです。

ジャフナのオフィスに着いたのは6時過ぎで、スーザンもわたしのヘトヘトでしたが、翌日コロンボへ戻るドライバーに同乗して、朝7時にオフィスを再出発、キリノッチのLTTEオフィスへ書類を書いてもらいに行きました。もちろんキリノッチへ行くためには、また政府とLTTEのチェック・ポイントを一箇所ずつ通らなくてはなりません。が、残念ながらLTTEのオフィサーから書類はその日には用意できないと言われ、わたしたちは(コロンボへ戻るドライバーと分かれ)、スリー・ウィーラー(トゥク・トゥク)と満員の公共バスを乗り継いでジャフナに戻りました。これでわたしのジャフナ2日目も終わってしまいました。

実はその次の週末コロンボで知り合いの方にお会いする約束をしていたわたしは、遅くとも24日(金)の夜までにコロンボに戻らなくてはなりませんでした。そこでジャフナでの3日目と4日目になんとか新しい部屋で眠れる状態を確保し、スーザンに簡単なジャフナでの活動のオリエンテーションをしてもらい、また数人の関係者に会わせてもらうと、23日(木)朝には再度ジャフナを後にしなくてはなりませんでした。つまり、キリノッチでLTTEのオフィサーから書類をもらい、DVD/CDドライブをチェック・ポイントで受け取り、その晩はヴァウニヤ(Vavuniya)に泊まり、翌金曜にコロンボへ列車で向かうというわけです。

ジャフナでドライバー付きのレンタル・バンでスーザンとともに、キリノッチに向かいましたが、担当のオフィサーが会議等でなかなかつかまらず、キリノッチからヴァウニヤに向かったのは予定の時刻を過ぎていました。つまりスーザンとドライバーがジャフナへ戻るための最終チェック・ポイントに5時半までにたどり着ける余裕があるかないか微妙なところでした。そこでヴァウニヤの鉄道駅で降ろしてもらうと、わたしはコロンボ行きの列車の時刻を調べ、ひとりでその晩泊まるゲスト・ハウスを見つけることにしました。

それまでの苦労(?)に比べれば、それはたいしたことではなかったのですが、のちほどスーザンからやはり彼らが5時半のチェック・ポイント通過に間に合わず、キリノッチの教会(彼女はクリスチャンなので、その筋の人脈が強いのです)に泊まらせてもらわなければならなかったことを聞きました。(キリノッチは携帯の電波が届かないので、その晩は連絡はとれませんでした。)

わたしは翌日5時前の列車で(つまりゲスト・ハウスに宿はとったものの、ほとんど眠らず)、コロンボに向かい、スーザンたちは午前の早い時間にはジャフナに帰り着きました。

そんなわけで、わたしのジャフナでの最初の1週間は、ジャフナにいる時間よりも、オン・ザ・ロードにいる時間のほうが圧倒的に長かったと言えます。

そして実はその後今度は、ジャフナに戻れない理由が重なり、3週間をコロンボ、ムトゥール(8月の時点でわたしが移動するはずだったフィールド・サイト)、ヴァルチェナイで過ごすはめになりました。

ジャフナに戻ったのは、10月14日(木)です。つまり9月17日マータラを出てから、ほぼ1ヶ月根無し草のようにあちらこちらを渡り歩いていた気分で、精神的にも肉体的にもかなり疲れてしまいました。もちろんこんなことになったは、いくつもの事情が重なったためで、誰かがどうこうできることでもなかったのですが、できればこんな体験は二度としたくないですし、ほかのどのメンバーにも体験させたくはないと思っています。あるいはこんな状況を受け入れられるメンバーは、それほど多くないと思います。

やはり5週間分の便りは長くなってしまいます。申し訳ありません。次回は、もっと簡潔に、3週間の根無し草状態中に体験したハイライト部分を書いてみます。それからもうひとつ昨日ジャフナで体験した心に滲みる法要についても、できるだけ早くみなさまにご報告したいと思っています。

長いメールを読んでくださって、ありがとうございます。秋も深まってくる日本の季節、精神的・身体的にかなりダウンしているいまのわたしには、とても恋しいです。やっぱり(やせ我慢せずに?!)一時帰国すべきだったかな、などと思ったりしています。

それではまた。

大島みどり

△スリランカ通信(33)2004.10.17/TOPへもどる

前号を読む|次号を読む