非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(34)2004.10.21

スリランカ通信34号/1984年10月ジャフナで

2004年10月21日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさま、こんにちは。
前回の33号をお読みくださった何人かの方々から励ましのお便りをいただきました。ほんとうにありがとうございます。文字通りそこにみなさまが居るということが、そしてときどき「読んでるよ〜」と声をかけてくださることが、わたしにとって何よりの励ましです。たぶんこうした場所で活動するということは(そして特に、国連関係や比較的経済的な余裕のある大きな団体ではない弱小?NGOで働く場合は)、仕事内容がハードというよりは、その場所で生活するということ自体が、まずハードなのだと思います。日本では終電まで仕事をする日々が多少続いてもたいして苦にはなりませんが(もちろんそんな状況を肯定はしませんが)、こちらでは、あるいは世界の多くの国・場所では、なにかひとつのことを終わらせるのに、一日がかりあるいは数日がかりというのは、珍しいことではないのでしょう。でもそんなグチも、以下の事件に比べれば、たいしたことではありません。スリランカの平和のために、わたし(たち)ができることはいったい何なのかを、あらためて考えています。

ジャフナでの紛争は1981年あたりからひどくなりましたが、1984年10月にこの紛争に関連して、ジャフナで初めての外国人犠牲者が出ました。日本山妙法寺という宗派(と呼んでよいのかわたしにはよくわかりませんが)に属する当時32歳の横塚上人という日本人僧侶です。日本山妙法寺は、実は現在Nonviolent Peaceforceのメンバー団体(日本では現在、非暴力平和隊・日本とピース・ボート、そして日本山妙法寺の3団体が登録しています)になってくださっていますが、もちろんこの事件が起こったのは、いまから20年も前のことです。

わたしはこの事件のことを、チーム・マネジャーのJanが貸してくれた、事件直後の日本山妙法寺の会報(英語版「天鼓」)を読んで、昨年10月初めに知りました。以下はそのときに得た(うろ覚えの)情報を、現在ゴールで日本山妙法寺のスリランカでの5つめのピース・パゴダを建設されている浅見上人に確認させていただきながら書いたものです。(結果はわかりませんが、英語で書いたものを、地元の新聞記者にもお渡ししました。掲載される場合は、タミル語ですが。)

1984年10月28日、横塚上人はいつものように、朝から太鼓をたたき「南無妙法蓮華経」と唱えながら、ジャフナの町を歩いていました。上人は当時、スリランカの聖地のひとつとして参拝者を多く集めるスリー・パーダ(仏足山)近くの日本山妙法寺(ピース・パゴダ)の責任者でしたが、ジャフナとスリー・パーダを行き来し、ジャフナではスリランカ仏教のお寺やヒンズー教の寺院に1週間から10日ほど寄宿させていただきながら、ひとりで町を歩き、平和のための祈りを捧げられていたそうです。その日も、夕方近く通りで出会ったタミル人と思われる数人にお辞儀をし、「南無妙法蓮華経」と唱えていたときに、その頭を下げていた相手から数発の銃弾を受けました。ほぼ即死に近い状態で亡くなられたとのことですが、遺体はスリランカ政府軍の手によってコロンボまで運ばれました。当時の大統領もこの事態を重く見て、日本山妙法寺の藤井日達上人や横塚上人のご両親宛に、親書を送られています。しかし、結局警察は上人を殺害した容疑者を捕らえることはできませんでした。

上人が亡くなる2日前にお母様宛送られた手紙の中に、(その手紙を書いた当日)タミル人暴徒数人に路上で囲まれ、暴言を浴びせられ、太鼓を盗られ、殴られたという出来事が書かれていました。もしかしたら同じ暴徒たちから銃弾を受けたのではないかという推測もたてられましたが、犯人を検挙できるだけの手がかり・証拠はなかったようです。

上人は、太鼓を叩き、祈りを捧げて歩くことが、はたしてほんとうにスリランカ(そしてジャフナ)の平和のために貢献できるのかを、身をもって体験されていたのではないかというのが、浅見上人のお話です。

先週土曜16日に、現在スリランカのワラパネというところでピース・パゴダを管理されている高島上人と、ゴールから浅見上人がジャフナに、横塚上人の21回忌のご供養にいらっしゃいました。ゴールのパゴダを何度も訪問し、活動のことから個人的なことまでいつも助言をいただいている浅見上人からのご連絡で、わたしとチーム・メイトのスーザン、そしてコロンボから来ていたチーム・マネジャーのJanと米国から訪問中のプログラム・オフィサー、David Grantの4名が、法要に参加させていただきました。炎天下1時間近く立ちっぱなしで、太鼓を叩き、「南無妙法蓮華経」と唱え続けるふたりの外国人僧侶と、頭を垂れて手を合わせる4人の外国人を囲み、人だかりがすぐにできました。(スリランカの人だかりについては、またいずれ書かせていただきますが、日本人のように『遠慮がちに』ということはまったくありません!)学校帰りの子どもたちが多く、彼らが20年前の出来事について知っているはずもありません。アフガンやその他の地域でも見られることですが、20年間も戦争が続く間に生まれた子どもたちにとっては、戦争状態が当たり前で、平和がどんなものなのかを想像さえできないことがしばしばあります。これと逆に、日本の子どもたち、そしてわたしたちの年代でさえ、戦争や紛争がどんなものか想像がつかないのと同じです。想像がつかないというのは、とてもむずかしいことです。つまり他人に対する思いやりや心遣いというのは、すべて想像力から生まれるものだからです。わたしの勝手な解釈から言えば、英語のimaginationは(もちろん文章の内容いかんですが)空想ということだけでなく、相手や他のものを想像し、思いやることだと思います。ジョン・レノンが歌ったのは、そうした思いやりのimagineだったのだと思っています。

それを考えるとき、横塚上人を撃った犯人たちは、いまどこでどんな暮らしをしているのかと、再度思います。彼らもその当時苦しい日常を送っていたのかもしれません。もしかしたらその後後悔の念に悩まされたかもしれません。あるいは、さらに悲惨な生活が続き、すでにこの世を去っているかもしれません。わたしは、彼らの苦しかったであろう状況に思いやりを寄せつつも、武力・暴力では(つまり横塚上人を撃ったことでは)何も解決はできなかったという事実を、彼らが悟ったことを、心から願います。

わたし(たち)にいまできることは、犯人の詮索・検挙ではなく、亡くなった横塚上人の思いを継ぐことだと思います。太鼓をたたきながら、平和を唱えて町から町を歩くことで、ピース・パゴダを世界中に建てていくことで、Nonviolent Peaceforceのフィールド・チーム・メンバーの参加し、紛争現場に居ることで、あるいはそのほか何百・何千もの(人々の数だけの)方法で、平和を訴えていくことはできます。スリランカに、アフガンに、イラクに、チェチェンに、イスラエル・パレスチナに、そして世界中に、ほんとうの平和が訪れるまで、わたしたちひとりひとりが、他人を思いやり(imagine)、できることを行動していくことが、大きな力につながっていくと、わたしは信じています。

10月28日、もしみなさまが思い出したら、スリランカ、ジャフナで1984年に亡くなった横塚上人のご冥福をお祈りください。
ありがとうございます。

大島みどり

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