非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(36)2004.11.18

スリランカ通信36号/じぶんが変わると世界が変わる

2004年11月18日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

こんにちは。日本の梅雨のような毎日が続くジャフナです。
毎日手洗いする洗濯物はなかなか乾かかず、もの(竹や何かの草で編んだものなど)によっては、カビだらけになります。

さて、前回の便りに対して、さまざまな楽しいお返事をいただきました。「マータラでは男の子と信じていたから、誰も尋ねなかったんだろう」「日本でも男の子に見えるよ」というものから、雨でキャンセルのミーティングについては、「もっとゆっくりやっては?」、そして「子犬の世話などしている暇があったら仕事をしろ!」などと言われはしないかと内心ハラハラしていたのに反して応援のことば、など。どんな内容にしろ、楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。そして念のため付け加えさせていただくと、ミーティングのキャンセル(先日は片道1時間かけてオート三輪で行った場所では、雨も降っていないのに人が集っていませんでした)については、ため息はでても、それで怒ったり、相手を責めたりはしません。どちらかと言うと、あきらめモードです。腹を立ててもしかたがないのです。なので、その点はどうぞご心配なく。

さて、きょうはまったく活動と関係ないので(申し訳ないので)すが、「ああそうか」と思った体験について書かせていただこうと思います。タイトルに書いたことばを、みなさんも最近とみに耳にしているのではないでしょうか。たしかにそうだろうと理解はするのですが、頭で理解するのと、じぶんが実際に体験するのとでは、その実感に大きな差がでます。昨年9月末に来スリしたときのオープニングで、NPの協力団体である、スリランカ最大のNGOサルボダヤのアリヤラトネ博士がこう言いました。

「みなさんがスリランカを変えるより、おそらくスリランカがみなさんを変えるでしょう」

わたしたちNPは、スリランカをより良い国に、あるいは平和な国に変えるために、ここに居るのではありません。もちろんそれが結果として得られたのであれば、それはそれでよいのですが、わたしたちはなにもスリランカ人より平和についてより知っている、あるいはより非暴力的に生きているという根拠などどこにもありません。(個人的な比較は別にして。)わたしたちは常に他人から学び、他人から影響を受け、他人が居ることで、じぶんを見つめることができます。そうした、学び、影響され、変わっていく「じぶん」がいない限り、学び、影響され、変わっていく「相手」も存在しません。つまりそんなことを、博士は意味されたのだろうと思います。

それで今回わたしは何から学び、影響されたか。それは子犬です。彼女にはほんとうに手がかかりました。最初の2週間は夜中でも3時間ごとに、トイレとミルクのために鳴きました。(最初のころはトイレをした後、鳴いていたのですが、そのうち、トイレを催して鳴くようになりました)2週間を過ぎると夜はもう少し長く寝てくれるようになりましたが、それでも朝6時前には起こされました。そのうち、わたしが食べているのを見るとじぶんも食べたがり、でもまだ歯が強くなく噛めないので、わたしが噛み砕いたパンやクラッカーを、わたしの手からなめるようになりました。起きているときは遊びたがり、わたしの足とサンダルにまとわり付きます。放っておくと、そのうち膝の上に載せろ、と見上げては鳴きます。「ああ、こういうのが世に言う『親バカ』(失礼)というものかなぁ」と、甘えん坊の子犬に手を焼きながらも、彼女に英語と日本語とめちゃくちゃのシンハラ語、タミル語で話しかけているじぶんを見ながら思っていました。

20日後彼女は新しい飼い主にもらわれていきました。話はしていたので覚悟はしていたのですが、ヨガのクラスから帰り、部屋を開けて彼女の姿と彼女が一時避難場所として使っていた段ボール箱が見えないと知ったとき、わたしはあらためて、どれほど彼女が20日間わたしに喜びを与えていてくれていたかを感じました。もちろんそれはすでに感じていたことですが、喜びと同時に面倒(多少の困難)を感じていたときは、その喜びの部分の影は薄かったのです。

こんな比較をしてよいのか少し迷いますが、たぶんこうした感覚、思いは、たとえば長らく身内の病人を看護した後、その看護をしていた方が亡くなったときや、あるいは大震災の後などに、じぶんも辛苦をなめながらも、さらに困っている人々を助け、協力し合い生きていたのが、人々がそうした相互補助を必要としなくなって(あるいはその場から立ち去って)いったときなどに感じる、一種の喪失感のようなものかもしれません。つまり、わたしたちはじぶんが「助けている」立場にいるつもりで、「助けている」相手から「助けられている」。以前にも触れた鷲田清一さんの「『弱さ』の力」です。

わたしがこんなことを書くまでもなく、みなさまはこうした体験をいくつもお持ちでしょう。わたしはいま決して知ったかぶりをして書いているのではなく、じぶんの小さな実体験・実感をみなさまに聴いていただきたくて書いています。そしてそれは、「『弱さ』の力」を実感したということだけに留まらず、それを体験したことによって、じぶんが変わり、そしてじぶんが見る世界が変わるという、さらに大きなフレームの中での体験です。「『弱さ』の力」を実感していないわたしが見る世界と、実感した後のわたしが見る世界は違うのです。つまり、たとえそこにある「世界」あるいは「現実」は同じであっても、それは見る人の見かた、感じ方によって、違うものになりうるのだと思います。(「真実」というのは、また違う議論になるので、それは今回は譲りますが。)わたしとあなたの見ている「世界・現実」が違うように、子犬がいなかったときのわたしと、子犬を手放したときのわたしは違います。じぶんが変わると世界が変わる――今回わたしは、20日間寝食ともにした子犬「あめ」(雨、天、わたしの友だちのペットのうさぎの名前、そしてわたしは彼女を大雨の中で見つけたので)から教わりました。

この体験はアリヤラトネ博士の「スリランカがあなたを変える」ということばの文脈「スリランカ」とは直接関係ありませんが、たとえ1年間でも過ごしたスリランカという場所、人々からわたしは日々いくつものことを学び、考えさせられています。そしてその中には、ほんとうにじぶんで驚くほど「じぶんが変わった」体験も含まれます。NPがそしてわたしがここで「何をした」かという事実(what)の部分も大切ですが、冒頭で述べたように、それは後からついてくるものかもしれません。ほんとうに大切なのは、わたしが何を「どう(how)」体験し、感じ、考えたか、そしてそれを「どう」人々と分かち合えたかということなのかもしれません。

11月29日からマータラの30分コロンボ寄りの町ウェリガマというところで行われるNPスリランカ・チーム全体ミーティングで、わたしはわたしたちの1年間の体験を振り返る(しゃべることより、じぶんを見つめ、それを他のメンバーと分かち合う)セッションをファシリテート(担当)させてもらうことになっています。わたしたちNPのメンバーひとりひとりが変わることで、世界が、スリランカが、どう変わっていくか(いったか)を聴くのを、楽しみにしています。

長くなりごめんなさい。
みなさまもどうぞおからだにお気をつけて。

大島みどり

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