非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(41)2004.12.31

スリランカ通信41号/スリランカ津波災害報告(3)

2004年12月31日
大島みどり

スリランカから今年最後の通信です。日にち・曜日の感覚がなくなって、きょうがほんとうに大晦日だったかどうか、いま携帯電話の表示を確認しました。今年最後の便りがこんな内容になるなんて、想像できませんでした。もちろん年が明けた後のメールがどんなものになるなんて、誰にもわかりませんが…。阪神・淡路大震災は、まだお正月気分が抜けたばかりの17日でした。自然災害は、ほんとうに日を選ばないし、待ってくれないところが恐ろしいところです。

2日間報告ができなかったのは、29日は一日外にいて、帰宅後はレポート書き(じぶんのNonviolent Peaceforce、以下NP、あて)と、そのほかのメール処理で夜中2時過ぎまでかかったのと、昨日はキリノッチへ行って宿泊、今日の午後ジャフナへ戻ったためです。日本で(あるいはほかの場所で)スリランカのことを大変心配してくださっているみなさまのことが気になったのですが、時間的・状況的に無理でした。ごめんなさい。長いですが、2日間のわたしの行動の概要と感想などを書かせていただきます。

29日(水):
朝NPの協力団体でもあるスリランカ最大のNGO、サルボダヤのジャフナ事務所へ電話をかけると、ちょうど彼らはジャフナでももっとも被害のひどかった被災地のひとつ、ポイント・ペドロ(以下PPD)に出かけるところでした。思わず「連れて行ってもらえるか?」と訊いたところ、快くOKしてくださったので、急いで三輪オートに乗って赴きました。てっきり彼らのバンで行くものと思っていると、どうやらバイク。PPDは車でも1時間半ちかくかかるジャフナの最北端で、道も日本とは比べものにならないくらい道のりです。慣れないバイクの後部乗りを1時間半、からだにちょっと故障部分もある(心配いりません!)ため、一瞬ためらいました。が、自家用車の(あるいは通訳も現地スタッフも)ないわたしに、選択の余地はありません。誰かと一緒に行けるときに行く・・・。こうして、おそらくINGO(インターナショナルNGO)の外国人スタッフでは、おそらくほとんど見られないはずのバイク後部乗りで、PPDへ向かいました。(途中国連の車が追い越していったのですが、その際わたしを心配して、車を止めて、彼らの車へ同乗してもよいと言ってくれましたが、行き先が微妙に違ったので、丁寧にお断りしました。国連の車はきっとすわり心地がよかっただろうと今でも思いますが・・・。)

PPDでは3つの避難キャンプを見学させてもらいました。サルボダヤ・スタッフはディレクター以外はほとんど英語を解さないので(そして彼はほかの用事で場所をすぐに移動したので)、また彼らは彼らの仕事をしに行ったわけですから、タミル語のわからないわたしは、誰かが英語で簡単に通訳してくれたとき以外は、ほとんど黙って、キャンプの様子を見るだけでした。が、どこでも状況は悲惨で、狭い敷地内に、とても多くの人々が、ほとんどカバンひとつくらいの持ち物だけで身を寄せていました。キャンプは学校に作られていることが多く、そのほか教会やどこかの団体(NGOなど)の建物が使われているため、水道・井戸があるか、あるいはすでにINGOによって、大きな水のタンクが設置されています。どうやらたいていのキャンプには、そこの人々を世話する、(スリランカの)担当NGOがあるらしく(もちろんその手の行き届き方には、大きな差があるようですし、またわたしの見た範囲は、ほんの少しなので、すべてのところにNGOが入っているかどうかはわかりません)、それらの人々が食事の世話や日用雑貨の配給などをしているようでした。多くのおとなは疲れきった顔をしていましたが、それでも泣いたり、取り乱したりはしていません。もしかしたら、避難してすでに4日目、そういった状況は、すでに通り越しているのかもしれません。

PPDからの帰りは、急遽その付近で待ち合わせをすることになった別団体の関係者に、ジャフナまで送ってもらいました。「この道をPPDまでバイクの後に乗っていったなんて、信じられない!」と(現地人の方ですが)言われました・・・。

30−31日(木・金):
日本で言うところの役所(県庁にあたるのでしょうか、とても小さいですが)のUNDP(国連開発計画)に勤める現地人の友人を訪ね、役所で発表している被災状況に関するデータをいただきました。彼の言うには、避難生活の必要物資はだいたいまかなえているようだから、あとはどのようにきちんと公平に分配するか、そして給食は、現在必要以上に用意されている可能性もあるので、今後は各避難所になべ・釜を用意し、そこで滞在者数にあった分だけ調理する、また避難所によっては、管理がうまく行っていないようなので、避難民の中できちんとコーディネータなりリーダーを決めて(あるいは行政から担当者を配置して)、生活状況(特に衛生面など)が悪化しないように、気をつけること、などが配慮されなければいけないとのことでした。

サルボダヤに顔を出すと、ディレクターは再びPPD近くの町まで行っているとのこと。毎日この往復はバイクに乗り慣れている彼でさえ、きっと大変なことでしょう。昨日のお礼だけ言って引き上げ、わたしのチーム・メイトがジャフナでもっとも信頼をおいている協力者のひとりである、アングリカン(英国国教会派)教会の牧師様のところへ、何かお手伝いできることがないかどうか訪ねると、もうひとりの牧師様、その方の妹さんと、ムラティブ(Mrllaittivu)へ出かけるところでした。ムラティブは地図上で見ると、ジャフナの右下(南東)、LTTE本拠地のキリノッチのほぼ東、海岸沿いに面した町(県でもあります)で、やはり今回の被害が大きかったところのひとつです。「お手伝いできることがあれば…」と言うと、「何ができるの?」と言われたので、「そうじとか、なにかからだを動かすこと」と言うと、笑われましたが、「一緒に来る?一晩泊まるけど」と言って下さったので、今回も即座に「ご迷惑でなければ!」と答えました。牧師様たちはすでにムラティブには何度か行っていて、今回は不足しているサンダル、女性用の服・下着などを調達して届けるとのことでした。

ムラティブへはキリノッチへ到達する前の分かれ道を東へ行くのですが、ムラティブへ入る際に許可が必要(LTTE支配地域)とのことで、キリノッチへまず出かけました。(キリノッチに行くまでに、ジャフナ−政府領域、を出る政府側チェック・ポイントとLTTE領域に入るLTTEチェック・ポイントがあります。)わたしはムラティブへ入る際のそうしたLTTEの手続きとチェックについてまったく無知だったのですが、LTTEはどうやら外国人のムラティブ地域への出入りを厳しく取り締まっているらしいのです。立ち入る3日前には、許可を申請し、チェックを受けなくてはいけないとのこと。もっと調べておかなくてはいけないと思いました。

そういうわけで、わたしのムラティブ入りは、残念ながら断られ、わたしはキリノッチの教会で牧師様たちの帰りを待つことになりました。でも、キリノッチ(の海岸線)も、被害を受けたところです。町の中には、ふたつの学校に避難キャンプが作られ、また病院は負傷者たちで埋まっています。そこで、キリノッチの教会の牧師様がわたしを(バイクに乗せて!)案内してくださいました。(ところで、牧師様たちは、たいてい英語がとても流暢です。なので、わたしたちの協力者になっていただきやすいのです。)

避難民の状況はやはりジャフナ(PPDなど)と同じように、かばんひとつで逃げてきたような悲惨さでしたが、どうやらそのふたつの避難所については、管理がほんとうによく行き届いている様子で、現地NGOとボランティアの学生たちが、かいがいしく立ち働いていました。

ただ病院は雰囲気がもっと重く、重症患者の病棟は行きませんでしたが、ベッド数が足りない病人が廊下に溢れ、またその家族もベッドわきのコンクリートの床にござを敷いて、座ったり寝たりしています。病人をたくさん抱えた避難所なのです。

大変な状況にいる方々にぶしつけなインタビューをしてはいけないと思い、同行してくださった牧師様に、話してもよさそうな人にだけ少しうかがっていただきました。奥様も子どもも亡くした男性、必死に子どもと母親をつかまえていたのに、ボートがじぶんの頭を直撃して、手を離さざるを得なかった男性、両親を亡くした子どもたち・・・。思わず牧師様と彼らの前で、涙がこぼれてしまいました。彼らは泣いていないというのに・・・。

夜9時過ぎにムラティブから帰って来られた牧師様たちにお話をうかがったところ、昨日は、スリランカ中南部の高地(ヌワラ・エリヤやおそらくキャンディあたりまでも含む地域)から援助チームが来ていたとのこと。やはりここでも支給物資はおそらくほぼ十分にあるようなので、これからは避難民の再定住と新しい生活スタートのための準備について考えなくてはいけない。そのためには、必要経費がかかる。それをどのように集めるか。また精神的・心理的にショックを受けた人たちが多いので(抱いていた赤ちゃんを波にさらわれた母親など)、彼らへのカウンセリングをしなくてはいけない。が、カウンセラーの数は圧倒的に足りないので、ボランティアを募り、1−2日の簡単なトレーニングをして、あとはOJT(実践)でやってもらうしかない・・・。ただ黙って(じぶんの意見などを言わず)1日でも2日でも、患者の話を聞くこと、それが必要、そしてできれば300人の患者がいれば、300人のカウンセラーが欲しい・・・。

そんなことを話す牧師様たちに、思わず「わたしがタミル語を解すことができたらいいのに・・・。わたしは聴けるから。」と言いました。ほんとうに、これほどタミル語ができたら、と思うことはありません。わたしはじぶんで話すことは大の苦手ですが、人の話は黙ってよく聴きますし、慣れて(慣らされて?)います。タミル語がわからないじぶんが悔しくてしかたがありません。

キリノッチでお世話になった教会は、大変広い敷地内に、身寄りの無い(災害とは関係ありません)女の子を50人以上も預かっていましたが、避難キャンプに同行してくださったまだ大変若い牧師様は、そこでも被災で、身寄りのなくなった子どもたちがいるかどうかを、チェックされていました。ムラティブから帰ってきた牧師様たちも話していましたが、身寄りのなくなった子どもたちをLTTEが子ども兵士として、連れ去る可能性もあるので、気をつけなくてはいけないとのこと。

ジャフナ(政府領域)は、まだユニセフなどが子どもたちを守れるかもしれないが、LTTE支配地域では、なかなか国連の力も及ばないかもしれないという話で、このあたりのことは、もしかしたらわたしたちNPとしても何かできることがあるかもしれないと思っています。

きょう31日は、スリランカ政府が全国一斉に喪に服す日(休日)としました。ジャフナにはお昼過ぎに戻りましたが、キリノッチからの道すがら、町々で手製の黒旗が掲げられていました。

一年の締めくくりが、こんな悲しい日で終わると、誰が思ったでしょう。日本も今年一年災害などが続きました。少なくとも、来年はスリランカにとって、日本にとって、世界にとって、そしてみなさまひとりひとりにとって、少しでもよい一年になりますように。みなさまの心のうちが、平和と喜びで満たされますようお祈りいたします。

大島みどり

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