非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(42)2005.01.05

スリランカ通信42号/謹賀新年〜それでも日は昇る〜

2005年1月5日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

スリランカ・ジャフナから遅ればせながら、あけましておめでとうございます。インドネシア・スリランカはじめ東南アジアのたくさんの国々が大変な年の暮れを過ごしたわけですが、それでも日は沈み、昇ります。亡くなった人々を偲び、いまだに行方のわからない人々の安否を心配し、傷つき多くのものを失った人々を気遣いながらも、残されたわたしたちは、きょうを精一杯生きなくてはいけません。被災者たちのためにいますぐにできることは限られていても、その切なる思いは、なにかのかたちで、いつかわたしたちのまわりの人々に還元されるでしょう・・・そうじぶんに言い聞かせながら、もどかしさの中で毎日を過ごしています。

日本から、その他の場所からいただくわたし個人宛のメールと、義捐金・救援物資に関する情報に、心から感謝いたします。メールの数が多く、またPCに向かう時間も限られているため、いただくメールにお返事できないこと、大変申し訳なく思いますが、どうぞお許しください。

それでは1日からきょうまでの簡単な活動報告をさせていただきますが、その前に、被害者数について、手元の情報をお伝えします。きょうの新聞「デイリー・ニュース」によれば、スリランカ全土で死者30,196人、行方不明者3,846人、負傷者15,683人、避難民834,849人です。でも、実際この数が正確かどうかは、まったくわかりません。大きな被害のでているはずのジャフナの県庁が出している数から見ても、桁が違います。(ジャフナ県1月3日現在、死者849人、行方不明者1,540人、負傷者656人、避難民16,381人。ただしこれは避難所に収容されている数なので、親戚・友人宅へ避難している人たちの数は含まれません。またもしかしたら、ジャフナの海岸沿いに多く建てられているSL軍のキャンプでの死傷者の数も含まれていないかもしれません。)正確な数など、正直言って誰もわからないかもしれません・・・。(ので、必要な方は、どうぞ多方面から情報を収集されてください。)

ムラティブ(Mullaittive)とキリノッチ(Kilinochchi)へ行く:

知り合いの新聞記者が、コロンボに着かれていたのは連絡を受けて知っていましたが、31日にジャフナに入られたとのことで、1日のお昼にお会いしました。2日にキリノッチへ行くご希望とのことで、わたしは30・31日にそこを訪ねたばかりでしたが、ご案内役を兼ねて(兼ねられるかどうかは不安でしたが)同行させていただくことにしました。バン(車両)は、やはりジャフナで活動されている日本のNGO、PARC(アジア太平洋資料センター)経由で手配していただき、わたしはときどきNPが頼んでいる通訳の女性に同行してもらう手配をしました。

2日は朝7時半にオフィスを出て、PARCでバンの到着を待った後、キリノッチへ向かいました。キリノッチでは前回お世話になったキリスト教教会にご挨拶した後、ムラティブに入れる可能性を打診に、LTTEの(国連やINGO担当)コーディネータへ面会を求めました。対応してくれたのは、メディア・コーディネータの方で、どうやら後で聞くところによると、彼はかなりの大物なので、なかなか面会などできないとのこと。知人の記者の勢いに圧倒されてかどうか、とてもすんなりムラティブ行きを承諾してくれました。(通行許可のレターが必要。)日本からのジャーナリストは、彼が初めてだということです。

ムラティブはキリノッチから2時間弱ほど東へ行った、海岸沿いにあります。メディア・コーディネータから指名された若い男性が、わたしたちに同行しました。到着した村は、ほんとうに瓦礫の山でした。被災地現場を訪ねるのは、わたしはこれが初めてです。聴いてはいましたが、見るも無残な状況に、ことばを失くしました。男性が数人瓦礫の山となっている家を掘り返しているので、知人の記者が訊ねると、行方不明の叔父(伯父)さんを探しているとのこと。家族の何人もを亡くした彼が、炎天下掘り返すのに使っていたのは、ただの棒です。彼は日が暮れるまで、この作業をして、そこからまた避難民キャンプに戻るのです・・・。

ひとつのINGOが重機を使って、瓦礫を取り除く作業にあたっていましたが、この村だけでさえ終えるのに、どれほどの時間がかかるのでしょう。そしておそらくこんな村が、ムラティブの海岸沿いにいくつも点在しているはずです。遺体収容はほぼ終わっているらしく、異臭などもありませんでしたが、家を掘り起こしている彼のおじさんのような行方不明者は、まだ数多くいることでしょう。

被災地を後にして、学校に設けられている避難民キャンプを訪ねました。LTTEの若い女性兵士が、手際よく、被災者の数などをタイプした資料を渡してくれました。キャンプはLTTEとTRO(タミール・リハビリテーション・オーガニゼーション)という国際的なタミール人ネットワークのNGOがかなりきちんと管理していたようですが、それでも医療者の数が足りず、診療所らしき部屋には、支援された医療品などが床に散らばったままでした。きちんと整理・分類するだけの人手も、時間も無く、ボランティアが説明書を片手に、できる範囲で対応しているようです。(もちろん重症患者は病院へ運ばれるので、対応は軽症患者のみですが。)

避難民に話を聴くと、不足しているのは、サンダルや婦人用下着・生理用品などとのこと。そういえば、前回わたしが教会の牧師さまたちと来たときも(わたしはキリノッチで待機でしたが、牧師さまたちは、ムラティブまで行きましたので)、彼らがジャフナで購入して持っていったのは、サンダルと婦人服・下着などでした。

わたしたちはその日中にジャフナへ戻る予定でしたので、インタビューが終わると、即座にムラティブを後にしました。それでもキリノッチのLTTEオフィスで、再度メディア・コーディネータの方にお会いしたときは、すでに午後4時半近くになっており、5時半のチェック・ポイント通過にはギリギリの時間でした。そこで、その日にジャフナへ戻るのはあきらめて、ゲスト・ハウスに宿をとった後、キリノッチ病院を訪問することにしました。ここは前回わたしも訪れているところですが、状況は3日前とほぼ同じで、ベッドもまたその周りも、患者とその家族で溢れていました。

お話をうかがったお医者様は、125ベッド数のこの病院に26日は800人の患者が運び込まれたと言っていました。病院の施設(LTTE支配地域ですが、SL政府が管理する公立病院です)が不十分なため、重症患者は、ジャフナとワウニヤ(Vavuniya)まで運び、軽症患者は、避難所に移ってもらったとのこと。政府(南部)からの医療支援は、ようやく2日前くらいから届くようになったそうで、それまでは、政府外からの支援に頼っていたそうです。

宿泊の準備もなにもしていなかったのですが、まぁ一晩のこと。とりあえず少しでも眠れればなんとかなります。翌朝(3日)6時半には、ゲスト・ハウスを出発しジャフナへ戻りました。

知人の記者は、昨日4日朝コロンボへ戻られたので、わたしはまたオフィスにひとりです。チーム・メイトは、どうやら10日深夜にフィリピンからコロンボへ戻るらしいので、ジャフナへの到着は早くて12日でしょう。昨日はソーシャル・ワークをされている牧師様を訪ね、いまどんな活動を、避難民に対して提供されているかどうかをうかがいました。牧師様が代表をされている団体は、ふだんから心理社会学カウンセリングをしているので、今回もPPD(ポイント・ペドロ)周辺の避難所で、子どもを中心にカウンセリングをしているとのこと。非暴力コミュニケーション・トレーニングなども、ふだんの活動の一環として行っているそうで、わたしたちの団体とも、協力して活動したいとおっしゃってくださいました。願ってもないこと!と早速明日(金曜)に彼らが訪ねる避難所に同行させていただくことにしました。(公共バスに乗って!)ことばができないので、何ができるかわからないと心配するわたしに、「まぁ行ってみて考えよう」と暖かくことばをかけてくれました。

そろそろ日本の新聞は津波の記事も姿を消してきていることかと思います。が、ムラティブのあの壊滅した村を見たわたしには、あの村が、そして多くの村々が、どう復興していけるのか、とても想像ができません。キリノッチのLTTEオフィスで放映されていたBBCニュースが、国連は津波の被災地が復興するまでに10年を見込んでいると言ったとき、思わず「10年?!(Ten years?!)」とつぶやいてしまいました。

ため息しか出ない年明けです。それでも、10年が1年でも2年でも短くなるよう、できることからしていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。

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