非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(43)2005.01.07

スリランカ通信43号/スリランカ津波災害報告(5)

2005年1月7日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

前回のSL通信はタイトルに津波災害報告と書きませんでしたが、内容的には津波災害報告(4)にあたるものなので、今回を(5)にさせていただきました。日本はおせち料理にも飽きて、七草粥を食べるころですね。もっともいまどき七草粥なんて、作るのも大変だし、作り方がわからない人も(わたしを含めて!)多いことでしょう。

昨日1週間ほど前に訪ねた、PPD(ポイント・ペドロ)の公立学校に作られた避難民キャンプを再度訪問したので、その簡単なご報告をさせていただきます。

今回は、水曜に訪ねた教会の牧師様(キリノッチへ同行させていただいた方とは別の方、ジャフナにはとてもたくさんの牧師様、神父様がいます)で、心理学カウンセリングのセンターもお持ちの方とその団体に同行させていただきました。行き先はPPDとしか聞いていませんでしたが、着いたところは29日にサルボダヤの人たちと訪ねたキャンプでした。29日に比べ、人々は衣服やバケツなどの生活用品を格段に多く持っているようでしたし、布やシート・ござを使って家族ごとの仕切りをなるべく確保しようとしているようでしたが、それでも、女性用下着の数が足りず、またプライバシーもまったくない、といった苦情が多く聞かれました。収容人数も半数近くに減らしたらしいのですが、それでも狭い校舎(日本の学校・教室を想像してはいけません、窓ガラスのない窓、ドアも洗面所も水洗トイレもない、コンクリートの建物です)と、ちょっとした広場の端にある、物置にしか見えない木造の小屋(ここはまったくの吹きさらし)の土の地面に、人々はござを敷いて、身を寄せ合っています。暖かい土地柄なのが、ほんとうに不幸中の幸いです。

人々に少しでも活気と自助努力を求めるため、行政は食事の配給を止め、各避難場所で食事の用意ができるように、食糧となべ・釜などの用意を整えました。また、人々は徐々に、壊滅状態のじぶんたちの村へ戻り、瓦礫の後片付けや、必要なものをとってきているとのことでしたが、何人かから聞いたところ、村には異臭が漂っているとのこと。行方不明者の数の多さから想像すれば、まだ瓦礫の下に死体が埋まっている可能性は多いかもしれません・・・。村の再建と人々の再定住のためにも、ブル・ドーザーのような重機による瓦礫の撤去がなによりも急がれます。

わたしが同行させていただいた牧師様の団体はカウンセラー(多くが若い女性)を一日2交代で、ほぼ10人前後ずつそのキャンプに送っているようでした。多くの時間は子どもたちとの遊びに費やしていましたが、そのほかおとなたちへのカウンセリングも、一日3人を限度にしているそうです。それ以上はカウンセラー自身に負担になるため、制限しているとのことです。実はわたしも、子どもたちと折り紙でもしようかと、前日から少し用意していたのですが、カウンセラーたちがふたりか三人一組くらいで、子どもたちを年齢と性別に分け、グループごとに歌を歌ったり、ゲームをしたり、ボールを使って遊ぶのを、まず見せてもらうことにしました。子どもたちは、どうやらやはりからだを使って遊ぶのが、いちばん好きなようです。わたしは、どんな遊びなら(わたしが)あまりことばを使わずに説明できて、一緒に楽しめるだろうかと、考えながら眺めていました。今回は時間が無く、ただ見学だけで終わりましたが、もし次回同じような機会があれば、何か知っているゲームや遊びを、子どもたちと試してみたいと思います。(いつものことですが、どこにどのくらいの時間居て、次はどこへ行くとか、何をするといった情報がなにもない、訊いてもわからない−つまりあまり考えていない−ので、付いて行くしかできません。『同行』時の難点です)

さて、あまり長くならないうちに終えるべきですが、少しだけわたしのスリランカの故郷?マータラの様子だけ少し書かせてください。

マータラもまたひどい被害を受けた場所のひとつです。災害後電話が復旧してから、マータラの友達10人近く(あるいはもっと?)に、無事の確認をし続けていましたが、どうしても連絡の取れない人々が何人かいました。結局元わたしのマータラでのチーム・メイトが、ちょうど28日くらいから休暇で米国からスリランカに来ることになっていたご主人とともに、マータラまで出向いてくれることになりました。NPのマータラ・チームも、ひとりは津波で足首を骨折、もうひとりはストレスなどの負担で心臓に支障をきたし、相次いで入院(その後ふたりともコロンボへ移送され、順調に回復しています)したので、わたしの元チーム・メイトはご主人とのスリランカ休暇を返上して、マータラ・チームの応援と、わたしたちの友人の安否確認に奔走してくれたわけです。電話が通じなかった3組の友人達の無事が確認できたときは、ほんとうに安堵しました。そして彼女から電話で聞いた彼らの奇跡的なストーリーには、鳥肌がたちました。一組の家族は、必死に窓枠にしがみついた父親が子どもたちを抱き、3度の津波に耐えた後、屋根伝いに隣家の子どもたちを救出したそうです。(家は全壊しました。)またもう一組は、親戚一堂8名がちょうどバスでコロンボに向かう際に、ゴールから少し北の町で津波に襲われ、バスの窓を破って必死に難を逃れたそうです。両方の家族とも、子どもたちはまだ4歳から12歳くらいです。じぶんの甥たちのことを思い浮かべながら、彼らが受けたであろうトラウマが、どうか少しでも早く癒されるよう祈るばかりです。

PPDで被害を受けた人たちは、最初「戦争がまた始まって」、攻撃があったのだと、その音の大きさから思ったそうです。そして床に伏せたがために、壁の下敷きになったり、逃げ遅れた人がかなりあったようです。おそらく南部の人たちには、そうした「戦争が始まって」という意識はなかったでしょう。兵士として南部から送られ、戦死した親戚などはいても、彼らの土地は、これまで戦地になったことはないからです。彼らは、ただ何も知らず、マータラの日曜マーケット(海岸からほんの100mほどのところで開かれていました)で、日曜の朝を楽しんでいたかもしれません。

被害の大きさ、救援物資の配給の不公平さなど、各方面からさまざまな声を聞きますが、なにが本当で、なにが信用できるかは、比べるすべもありません。でも、比べたところで、被害を受けた人々の悲しみは癒されません。世界各地から送られる救援物資と義捐金、そして励ましのことばに、心から感謝しつつ、スリランカの(そして被害を受けた諸国の)人々は、じぶんたちの足で再度立ち上がる努力をしていかなくてはならないのだと思います。他人がじぶんに何をしてくれるかではなく、じぶんが他人に何ができるのかを考えられたとき、わたしたちは立ち直れるでしょう。

大島みどり

p.s.
ストレスには比較的強いほうだと思っているわたしですが、「なにもできない」ストレスからか、昨晩銃をつきつけられて、声も出せない悪夢を見ました。声が出ないのです。そしてやっと出たのが、「たすけて!」。言ってから、「あ、英語で言わなくちゃ!」と焦って、”Help!” (いまでも日本語・英語で夢を見ますが、両方の言語で見るのはまれです!)それでも、だれも気がついてくれず、「もうだめだ」と思ったところで、目が覚めました。(うなされていました。)言語のところなど、いまでは笑えますが、やっぱりストレスが大きいのだろうと思います。わたしでさえそうですから、津波のPTSDを持つ人々のことを思うと辛いです・・・。

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