非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(58)2005.07.20

スリランカ通信58号/がけ淵

2005年7月20日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

書き始めたのが、すでに1週間近く前なので、どうぞ時間差をご了承ください。またお送りする前に、推敲する時間がなかったので、つながり等がうまく説明できているかどうか不安ですが、不明点は、どうぞご質問ください。

きょう(7月15日)ほど一日が長いと感じたことは、スリランカに来て以来ありませんでした。

昨晩、わたしたちムトゥール・チームでフルタイムの通訳をしてくれていた男性が、心臓発作で亡くなりました。おととい、トリンコマリーに滞在していたわたしたちがオフィスに電話したとき、彼が具合が悪く、病院へ行ったことを知りましたが、昨日の朝は、元気にオフィスにやってきて(わたしたちはおとといの夜ムトゥールに戻りました)、夕方まで一緒に仕事をしていました。夜9時過ぎにオフィスの前を自転車で通りかかった彼に、チーム・メイトがトリンコマリー/ムトゥールは状況が危険だから、十分気をつけるように話していたのを、わたしも見ていました。が、11時すぎに彼の息子さんらが、わたしたちのオフィスに駆けつけて、車で彼を病院に運んでほしいと言ったときには、もう手遅れだったようです。お嬢さんの家に彼を訪ねたときは、もう脈がありませんでした。病院に担ぎ込みましたが、すぐに家に戻らざるを得ませんでした。

今年2月くらいからNPムトゥール・チームで働いていた彼は、今年61歳を迎える、nonviolentでやさしい人でした。ポルトガル系の血を引くため、タミル語(ネイティブ)、シンハラ語、英語、ポルトガル語を話すことができました。たくさんの子どものうち、4人の息子さんをスリランカの内戦で(理由はいろいろですが)亡くし、80年代後半にムトゥールを襲った戦火のむごさを、語ってくれました。

昨晩(14日)ほとんど眠れなかったのは、彼のこと、そしてこれから書かせていただく状況によるものです。

10日(日)にトリンコマリーの町はずれで、元LTTE兵士(高い地位)ふたりを含む、4人が殺される事件がありました。事件が、スリランカ軍の警備(チェック・ポイント)を抜けてでしかたどり着けない場所で起こったため、タミル人・LTTE側から見れば、これはスリランカ軍・警察・政府がからんでいるとしか言いようのない事件でした。わたしたちはムトゥールにいましたが、トリンコマリーの関係者から連絡を受け、トリンコマリーへ向けてすぐにムトゥールを発ちました。

これが、今回の一発触発状態の発端でした。詳細までご報告することはできませんが、その後LTTE側によるスリランカ警察・軍隊への手榴弾などによる攻撃と、それに対抗するスリランカ軍による発砲が、トリンコマリーの町で相次ぎ、それが、次第にムトゥールや周辺の町々・スリランカ軍キャンプなどに飛び火して行きました。死傷者の数こそまだ数十名に留まっているものの、銃撃戦の場所となった地域や村々では、おもにタミル人やムスリムが、数多く避難を開始し、朝になって戻ってくる人々もいるものの、避難したまま戻れずにいる人たちもまだいます。

チーム・メイトのひとりが、家族の事情で緊急に一時帰国していたため、ふたりしかFTM(フィールド・チーム・メンバー)がいないムトゥール・チームは、事件がトリンコマリーの町からムトゥール方面へ移っていくのを気にしながら、いつトリンコマリーからムトゥールへ戻るべきか、検討を重ねていましたが、水曜の夕方、一路ムトゥールへ向かいました。すでに津波被災者のキャンプの前に張られたスリランカ軍のテントに、手榴弾が投げ込まれる事件があったムトゥールでは、わたしたちが戻った水曜の夜も、町から程遠くない場所で、スリランカ軍のトラックに、手榴弾が投げ込まれる事件がありました。

これら一連の事件に先立つこと2週間、6月末に、実はLTTEから政府へ出されていたリクエストがありました。これは政府領域内での、LTTE兵士の移動時の身の安全を、政府側(スリランカ警察と軍)が、保証するということものだったのですが、LTTEは、政府側からの回答に2週間という、時間制限を設けていました。そしてこの、時間切れが、ちょうど14日にあたったわけです。状況がさらに悪くなる中で、この2週間終了後、もし政府からのよい返事がなかった場合、LTTEがどんな行動に移るか、そしてそれに対して、政府(軍)が、どのような対応をとるか、それは、人々の恐怖心をあおるには十分すぎるものでした。

14日の夜、つまりわたしたちの通訳ジョセフの予想もしなかった死に直面したその日、わたしたちは、こうしたトリンコマリー/ムトゥールの予断を許さない状況の中にいました。もしものときのことを考え、どこにでもすぐ避難できるように、貴重品とほんの少しの身の回りのものをリュックに詰めて、服を着たまま、数時間だけ横になりましたが、ショックと緊張でほとんど眠れませんでした。

翌15日は金曜で、ムスリムが大多数のムトゥールの町は、店もほとんど閉まり、町には人々の姿がほとんど見られませんでした。14日の期限切れから24時間・48時間が危ないと言われていた48時間は、まだ終わっていません。夕方になり、ムトゥールの周辺で大勢のLTTE兵士が移動している、またスリランカ軍も大量の兵士が集ってきているという情報が入ってきました。ムトゥールは、LTTE支配地域に隣接していますし、トリンコマリー湾に面した(トリンコマリーの町は北側、ムトゥールは南側)戦略的には、かなり重要な場所だということです。おそらく1ヵ月半以上ぶりに本格的に振り出した雨の中、わたしたちは、トラックをスリランカ海軍のキャンプに隣接した集落に走らせました。集落に残る人々、ムトゥールのもう少し内陸部の親類などを頼って、避難を始める人々、狭い路地のそこここに、人々が集っていました。わたしたちは、何度もトラックを止めては人々に状況を尋ね、もし何かあったら連絡をするように声をかけた後、海軍のキャンプの手前で(そこまで行くのは危険かもしれないので)、トラックをターンさせ、オフィスに戻りました。前夜の疲れもあったので、真夜中過ぎにはベッドに入りましたが、緊急避難用の荷物を足元に、服を着たまま、二晩目の夜を浅い眠りの中過ごしました。(朝5時に、ジョセフを弔う教会の音楽−すさまじいボリューム−で、何事かと飛び起きました。)

さて、いまこれを書いているのは、20日(水)の朝です。ありがたいことに、その後情勢は少し静かになりつつあるようです。人々の不安はまだかなり強く、あちらこちらで銃声を聞いた、などの話も聴きますが、事実確認をとることはむずかしいです。

チームのほうは、ヴァルチェナイ・チームからひとり応援がかけつけ、また一時帰国していたチーム・メイトも昨日戻りました。来週月曜から5日間、コロンボで新規に参加するメンバー14人と合流してのNPSLリトリート(合宿)です。彼ら14人は、その後ほぼ10週間のトレーニングに入り、その間フィールド訪問などもありますが、10月にフィールドに派遣されることになります。

おそらく明日(21日)には、トリンコマリーに出かけ、そのまま日曜にコロンボに向かうことになりますので、長くなってしまったこのスリランカ通信58をここで終わらせていただきます。サーバーが不具合のようなので、このメールがトリンコマリー出発前に送信できるか心配です。

リトリート終了後ムトゥールへ戻る(8月7日くらい)までは、オフ・ラインになると思いますので、ご了承ください。

きょうも、明日も、あさっても、平穏な朝が迎えられますように。

大島みどり

追伸:
わたしたちは、じぶんたちの身の安全を必ず確保しますので、どうぞご心配なさらないでください。

〔事務局からの注〕
7月10日から15日のトリンコマリー及びムトゥールの状況については、スリランカ通信とは別のかたちで、大島さんから非暴力平和隊・日本の事務局に送られてきた報告もご参照下さい。

大島みどり

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