非暴力平和隊・日本

トリンコマリー及びムトゥールの緊迫した情勢について(2005年7月)

以下の文章は7月15日に非暴力平和隊のムトゥール・オフィスに赴任している大島みどりさんから送られてきた報告を非暴力平和隊・日本の事務局が編集したものです。7月20日に送られてきた「スリランカ通信58号」もご参照下さい。

7月10日(日)

事件は、以下のようにLTTEのトランジット・オフィスで起きたと伝えられています。

トリンコマリーの町の中心から外れたところにあるトランジット・オフィスの外にすわっていた元LTTE兵士(ひとりは元海軍コマンダー)ふたりと、一般市民(とは言え、どういう関係があるのかはわかりませんが)ふたりが、バンに乗ってきた複数の暗殺者たちによって、銃で殺されました。「トランジット・オフィス」というのは、LTTEが、誘拐・勧誘した人・子どもたちを、LTTE支配地域/キャンプに連れて行く際(前)に使うところといわれています。中をのぞいてみましたが、家具も何もない、空き家同然の一軒屋でした。この殺害現場をデジタル・カメラで撮った写真を見たのですが、ひとりは、完全に頭・上部顔面を数発の弾で撃ち抜かれている状態で、「ここまでしなくても…」という感じでした。

朝11時くらいに起こったようですが、わたしたちはその後約30分程度で連絡を受け、12時半ぐらいにムトゥールを出発しました。トリンコに着くと、まず町を巡回し、その後現場にも駆けつけ、そこにいた人々(タミル人)の訴えを聞きました。そのあたりはタミル人地域ですが、そこに到着するまでには、軍・警察の簡単なチェック・ポイントがあります。「バンに乗って武器を持つ」とされる犯人達は、そのチェック・ポイント(二方向から来る道の両方にある)を通らなくてはいけないのです。つまり、LTTEや大方のタミル人の見方としては、軍・警察の関与なしに、この殺人はあり得ない、ということです。これが発端です。

7月11日(月)

この日を「喪に服す日」とタミル人(LTTE)がアナウンス。店等は開いていました。夕方トリンコからムトゥール方面へ3体の遺体が運ばれました。この際には、LTTEがデコレーションしたトラックで町を抜け、運動場のようなところでLTTEのトリンコ地区代表やタミル人組織の代表者による演説(訴え)が続きました。ICRC(国際赤十字)が、遺体をサンプールという町へ運びました。ムトゥールから40分程度のところにあるLTTE支配地域で、political officeもあります。

7月12日(火)

Hartal(全面ストライキ)。わたしたちが滞在する、町から少し離れた北部のゲスト・ハウスの近くでも、道路を大木やタイヤで塞ぎ、火をつけて燃やすなどの行動がありました。わたしたちは、町の巡回を何度も繰り返しましたが、不気味に静まり返った町の道路沿いには、以前にも増して、警察・軍隊が配置されていました。

時間的なことはすべて忘れてしまいましたが、このころから、町の数箇所で、手榴弾が投げられ、それに抗戦する軍の兵士の発砲が起こり始めました。午後には、わたしたちが巡回をするために町に出てゲスト・ハウスに帰る直前、その近くで、警官が乗ったトラックに手榴弾が投げられ、13人の警官が負傷しました。ゲスト・ハウスの庭にけが人が運び込まれ、わたしたちが到着する直前に、救急車が現場を去りました。ゲスト・ハウスの前は、その後数時間、何人もの兵士や警察官が検証やガードをしていました。

7月13日(水)

前日、手榴弾の投げられたトリンコの一角で、前夜も交戦がありました。近くのNGOから連絡があり、訪ねると、その家の外側の壁やいたるところに、銃弾の跡がありました。そのあたりの人々は、どこかに避難しているらしく、そのNGOも2−3日オフィスを閉めるとのことでした。

また同じく前夜ムトゥールにある津波避難民キャンプの外の軍のテント(このあたりでは、避難民キャンプの出入り口にガードの兵士がたいてい配置されています)に、手榴弾が投げられ、兵士ふたり(?)とムスリムの少女ひとりが負傷しました。これは、ムスリムのコミュニティに波紋を起こしました。

ムトゥール方面が危ないとのアセスメントで、わたしたちは朝トリンコを出発しましたが、町を出るちょうど5分前くらいに手榴弾が投げられた現場に差し掛かりました。(もちろんそのことは知らずに町を出ようとしていたのですが。)その場でつかまったという犯人を見かけました。トリンコに残るか、ムトゥールに帰るか、ふたりしかいないチーム(通訳はムトゥール・オフィス−昨夜亡くなった方と、もうひとりパートでトリンコに同行できる方がいますが)でどうしようと悩んでいたのですが、午後2時頃にUNICEFからミーティングへの出席依頼を受けたので、とりあえずそれに出席してから、その後のことを判断することにしました。

UNICEFのミーティング後、ムトゥールへ向けて出発し、夜7時過ぎに到着しました。夜、ムトゥールの近くの軍のキャンプのトラックに手榴弾が投げられ、兵士およびオフィサーの計10人ほどが負傷する事件が起こりました。

7月14日(木)

昨晩軍のトラックに手榴弾が投げられたというキャンプ周辺の村々とその他の地域を巡回しました。人々に、どんな様子か、状況をどう見ているか、緊急時にはどこへ逃げるか、などを訊いて回りました。どうやら全般的に、人々は小さなスケールの戦争が始まるだろうと、とても不安になっているようです。かと言って、隠れる場所は、ジャングル(と言っても、熱帯雨林のようなジャングルではなく、人が住んでいない木立の地域という感じです)か、あるいは家に留まるという選択しかないようです。

7月15日(金)

午前の様子では、ムトゥール周辺では大きな出来事は起こっていないようです。トリンコでは、やはり手榴弾・銃撃事件が起きたようです。きょうはもしかしたら、ヴァルチェナイからひとりが応援に来るかもしれません。また昨晩亡くなった通訳の方のお葬式(彼はクリスチャン)があります。

わたしも、チーム・メイトも、昨晩はほとんど眠れませんでした。62歳だった彼は、とてもnonviolentなやさしい方でした。ポルトガル系なので、タミル語・シンハラ語・英語・ポルトガル語を話せました。これまでの内戦で4人の息子さんを亡くし(理由はいろいろ)、戦争のむごさを語っていました。
とても残念です。

それからひとつ、バック・グラウンドとして付け加えます。LTTEが、政府領域でのLTTE兵士の移動の安全確保に、政府がもっと責任を持つべきだと主張しています。6月にバティカロア・ポロンナルワ方面で、LTTE兵士の乗ったバスが地雷を踏む事件があったのです。14日以内に何かきちんとした対策・政策をとるよう、いわゆる最後通告のようなものを出したのが、確か6月30日でした。つまり昨日7月14日がdead lineで、政府からの回答待ちだったわけです。それで、政府が何もしない場合は、トリンコ/ムトゥール近辺でも、大変なことになるだろう、というのが、大方の意見でした。14日の夜から、24時間・48時間くらいが、critical timeだということです。

昼間はまだ視界がクリアなので、なにかあれば対応することも可能かもしれません。でも夜は…?水曜の夜トリンコからムトゥールに戻る道すがら、暗い道に配置された兵士を見ました。トリンコの町とは違って、ほんのところどころにふたり程度で配置さている彼ら。街灯もなにもなく、まわりは木立か、野原か、田畑。どこからだれが襲ってくるかもわからない彼らの恐怖を想像しました。彼ら自身が銃を持っているからこそ、なお怖いのです。素手の一般人なら、そんなところに夜間たたずむ必要も、また襲われる危険性も、ほぼないのです。(銃撃戦でも始まらない限り。)

昨晩は、SLに来て初めて、昼間の服のまま、めがねをかけたまま、ベッドに横になりました。パスポート・貴重品ほか少しの着替えや日用品をデイパックに詰めて、いつなにがあっても飛び出せるように用意しました。もちろんそこまで心配する必要もないかと思いましたが、なにかあってからでは遅いので、またわたしがぐずぐずしてほかの人たちに迷惑がかかるのもいけないので、念には念を入れたわけです。

1ヵ月半くらいぶりに降り始めた雨の音と、遠くで光る雷と地響きのような音(雷鳴)が、まるでどこかで銃撃戦が起こっているのではないかと思えるような、一夜でした。わたし自身のことが不安というよりは、この国、そして人々に起こることが心配なのです。ジョセフ(通訳)のこともありましたので、疲れているのに寝付かれませんでした。でも、わたしは大丈夫です。決して無理はしませんし、できることとできないことの判断は、きちんとできますので、どうぞご安心ください。
明日の朝が、そしてその次の朝が、平穏に訪れますように。

大島みどり

△トリンコマリー及びムトゥールの緊迫した情勢について(2005年7月)/TOPへもどる