非暴力平和隊・日本

非暴力平和隊実現可能性の研究【第1章 第3節】

第1章 非暴力平和隊のイメージ

クリスティーネ・シュバイツアー

1.3 200年の歴史を振り返って

平和維持のプロジェクト以上のことをカバーしている非暴力的紛争介入についての包括的な歴史書はまだ書かれていない。その歴史はたぶん、前史として17〜18世紀に植民者とインディアンとの間に立ったクエーカーがおこなった調停のようなそれ以前のいくつかの行動と出来事を示しながら、前世紀に始まったものであろう。たぶんもっともよく知られており、もっとも影響を与えたイマヌエル・カントのライフワーク「永遠平和のために」(1795年に書かれた)のような哲学的研究による啓発思想の時代に始まったような国際法による平和の概念について言及しなければならないでありましょう。これらの思想は、19世紀の平和運動ばかりでなく、国際連盟および国際連合とその憲章の創設者たち、市民と人権に関するいろいろな条約、ならびに平和維持派遣団にも直接的にあるいは間接的に影響を与えながら、政策の正当化の手段として、現実的政治(訳注:武力外交のことを婉曲的に表現した言葉)と戦争の時代の100年以上にわたって生き続けた。

そのような包括的な歴史の中で、平和主義の出現が果たすであろう主要な役割、非暴力行動と非暴力的(社会)防衛の高まり、および世界中の人々の闘争の盛り上がり、過ぎ去った20世紀に主流を占めた開発のすべてに対し、彼らの多くは非暴力的に、あるいはほとんど非暴力な手段を用いて闘った。

常設の平和軍を設立するという目標は、基本的にNPによって分担される目標だが、モウザ・プアンスワンとウェーバーが言うように「再出発した構想」と正しく呼ぶことができるかも知れない。 第一次世界大戦から今日までの間に、非暴力介入に関する文献の中に彼らのやり方を記述した類の提案が、少なくとも1ダースほど提出されていたように思われる。私は個人的に、これまでのところ見落としてしまった論文が少なくとも2倍以上あったものと確信している。 良く知られている提案には、それぞれ一、二の例外はあるが、二つの共通項目がある。それは、平和維持および介在による平和執行、あるいはそのいずれかの役割を強調していることと、国連あるいは他の国際的機関の援助のもとに新しい手段を据えることを模索していることである。この提案が目指していた機関によって注目されたことはほとんどなかった。

共通の3番目の要素として、すべてではないが大部分の提案には、プロジェクトとの強いつながりがあった。いくつかの事例では、平和軍を創設するという提案が、特定の事例に干渉しようとするプロジェクトの考えの後に続いた。たとえば、中国と日本の間の紛争に介入しようとしたモード・ロイデンスの具体的な提案の後で、彼女と彼女の信奉者たちは国際連盟に対とし全般的提案に発展させた。他の事例では、平和軍の提案は、もっと観念的なレベルで発展された。先行するプロジェクトはしばしば、パイロット・プロジェクト、あるいは模範的なプロジェクト(クリスチャン・ピースメーカーズ、ドイツの市民平和サービス)として、その初期に見られた。後者の事例では、その機関は、その広い構想が実際的でないとか、もはや望ましくないとして、すぐに捨て去られる傾向であった。

これらの提案すべてが観念的レベルに止まっていた訳ではなかった。暴力に異議を申し立てたり、暴力を止めるために、あるいは平和構築に貢献するために、自発的なグループやプロジェクトが多数結成された。そのようなプロジェクトの資料を集めた概論もわずかながらある。しかし、ここに書かれていない事柄についての所見から始めることにする。いくつかの一般的な概観の中に書かれている非暴力行動のあるものは、私の目には非暴力介入の範疇には含まれないと判断されるので、除外した。それで、アフリカ人を含む国際グループが1959年〜60年のフランスの最初の核兵器実験に抗議した時のサハラ抗議行動にも、核兵器開発競争に抗議するためのいろいろなピースウォークや平和船団の派遣にも、そしてインドの自由化闘争であるカップ・プッチや1968年のプラハ、1986年のフィリピンなども含まれていない。これらの事例ではすべて、非暴力活動家たちは自分たち自身のものではない紛争の中に介入してはおらず、自分たちを紛争当事者にしてしまっている。これらの例を研究することにより、非暴力行動が果たした役割について多くのことを学ぶことはできるが、それらをここに含めることは、その点において承認範囲を超える主題に拡げることになってしまうだろう。

活動家たちが部外者として介入をおこなったのか、自分たち自身の闘争を闘ったのか、を判断することのむずかしいプロジェクトもある。特に平和チームあるいは類似のチームが、たとえば、彼ら自身の国の中で発生した人種差別紛争や民族紛争の中で、調停を図ろうとしたり、脅かされている人々に同行したりするように、局地的に行動するようになった時が、問題となる。概して私は、これらのプロジェクトが、最初に直接的に当事者グループの一つに属していない限り、むしろ非暴力介入であると考えたい。たとえば、少数派のセルビア人のメンバーがクロアチア人過激派によって脅かされている地域の中で介入しているクロアチア市民は、彼女あるいは彼が民族としてクロアチア人であろうとセルビア人であろうと外部団体である。

自発的に結成されたグループおよび連合が、影響を及ぼしたいと望んでいる特定の紛争あるいは戦争の衝撃の下で、彼らによって企画されたいくつかのプロジェクトは、大規模なものであった。それはしばしば引用されているのだが、1932年に日本と中国間の戦争を止めるために平和軍を設立しようとしたイギリス人の司祭モード・ロイドンの試みから始まった。また、もう一つ1960年代の半ばから1970年代の半ばにかけてそのような行動の波があった。それはキプロス、ベトナム、インド、中東、北アイルランドで紛争が発生すると、その周辺でそのような行動が考えられ実行された。そのような自発的な活動の第三の波は、1990年代に始まった。最初は第二次湾岸戦争(ガルフ・ピース・チーム)であり、次にボスニア/旧ユーゴスラビアでの戦争の周辺でのいろいろな行動であった。ラテンアメリカはもう一つ別の焦点となった。

たぶん同じ人々が関わっていることが多い、という理由によるのだろうが、いろいろな行動の間に明瞭な関係があるし、よりしっかりしたグループや組織の設立に向けての自発的な行動の間にも明らかな関係があることに気づかされるのは興味深いことである。1970年代の事例では、これは即時的反応よりも遅れていた。1960年代の前半には、世界平和旅団という一つの影響力の強い組織だけが設立された(そしてまもなく解散した)のだが、そのような行動や世界平和旅団に関わった活動家たちは後で、たとえば、国際平和旅団(PBI)や、平和のための証人、クリスチャン・ピースメーカー・チームなどの設立に、そしてその指導的立場に関わった。1990年代になるとものごとはさらに速やかに進行した。自発的行動としていくつかの新しい組織がほぼ同時に結成された。ヨーロッパの国々の中のバルカン平和チームや市民平和サービスなどである。

これらの類のプロジェクトの目標と活動を記述することは思ったほど簡単ではない。国際的な活動家を、闘っている当事者の間に介在させることによって集団的暴力を止めたり抑制することに従事するのが、大多数の彼らの目的であったけれども、それがすべてではない。 彼らの中のいくつかは、問題を広く公表することおよび戦争の犠牲者への連帯を表明することを目的としていた(たとえば、1968年のワルシャワ条約軍による「プラハの春」の抑圧に対する抗議行動、中東での2回の平和行進と1990年代にボスニアでおこなわれた1、2回の平和キャラバン/行進)

このカテゴリの中に挙げられているいくつかのプロジェクトは、自分たちの家に戻る難民に同行する(たとえば、ラテンアメリカの事例)ことに専念していたり、1993年にいろいろなアンブレラ(連合)グループによって実施されたプロジェクトである「正義を求める叫び」のように人権の状況を監視し、脅されている個人に同行しているので、その限りでは例外的なグループがある。これらは安定した組織ではないけれども、むしろ多くのグループが一緒になって実施しているプロジェクトなので、この章に入れてあるのだが、これらのプロジェクトのアプローチと戦術は次の章に記述されている平和チーム組織に類似している。それでそのいくつかは次章で再びとりあげる。

参加者の数(あるいは、いくつかの行動は結局実行されなかったので予想参加者数)には、かなり大きな幅がある。1993年にイタリアとフランスの組織によって計画されたボスニアヘの平和キャラバンである「ミル・サーダ」はたぶん最大のおよそ2.000人の人々を集めた。最小のものはたぶん20人の参加者だった。しかし、最大の参加者数と同じくらいに印象的なのは、参加者が自分の意志で選んだリスク (ほとんどの行動は、参加する見込みのあるボランティアに対して、彼らが行動している間に殺されるかもしれない、ということを十分に明確にしてある) を考えることだ、これらのプロジェクトがすべて短期的な性格のものであったということを忘れてはならない。著者自身の経験では、1年間あるいは2年間というような長期間にわたって、適切な補償(給料)なしに関わろうという人を見つけることは極めて困難だ、ということである。ここに記載したプロジェクトがいずれも補償をしていなかったことはもちろんである。

戦争を止めたり防止するために設立されたプロジェクトによって達成された効果/目標に関しては、ウェーバーが彼の要約で述べているのが正しいように思われる。すなわち、「提案段階で立ち往生してしまった早期の主なイニシアチブのほとんどは、資金の欠乏と国際支援組織がなかったことおよび兵站支援の欠如が主要な原因であった。」他のプロジェクトは少なくとも現地に到着した。だが、彼らが自分たちに対して設定した目標、すなわち戦争を止めるという目標には到達したものはなかった。

それにもかかわらず、それらのイニシアチブのほとんどは、交戦中の当事者間に明確な地理的な境界がある国際的な、あるいは準国際的な戦争という環境の中でおこなわれたことを指摘する必要がある。それらのうち、ごくわずか(ユーゴスラビアの事例)だけが、現在では主流となっている紛争の様式として設定された、それは混じりあった民族(あるいは宗教)間の市民戦争であった。
あるいは、これは現在も未解決のまま残されていると言えるが、ここにおける介在は失敗した。その理由は、大勢の活動家たちが一カ所に短い時間だけ一緒にいただけであって、そのコミュニティの中には何の足跡も残さなかった、というやり方が適切ではなかったからである。それ故に、敵対者同士の間に明瞭な境界のない所であって、用いられる武器がむしろ小型武器の範疇に入るような市民戦争に対して、介在プロジェクトは不可能のように思われる、と軽率に決め込むべきではない。これは少なくとも、紛争中の当事者間に何らかの停戦合意があるという状況の中での平和維持の領域に分類されるプロジェクトに当てはまる。

この研究への委託項目は、大規模な非暴力介入についての必要性と可能性を明らかにすることであるので、非常に重要ないくつかの紛争変換のアプローチ、特に専門的な「非公式」の紛争解決活動家により開発され企てられているアプローチは、彼らのやっていることが少人数の人々によってのみなされている、という理由によって無視しなければならなかった。専門的な紛争解決活動家は、本来トラック・ワン・システムの中から(たとえば、ジミィ・カーターのような元政治家)、あるいは宗教的または専門的な経験のいずれかからやって来るだろう。 平和チームや平和サービスとは対照的に、この範疇の人々は主に平和創造の分野で活動している。彼らは(たとえば、ジュネーブにこの目的のための家を維持しているクエーカーのように)非公式 ではあるが優れたサービスと調停を提供している、と言って差し支えない。これは、しばしばその後におこなわれる公式の交渉のための準備となっている。もう一つ別の活動は、紛争解決ワークショップである。これは特別なやり方であって、インタナショナル・アラート(本拠地ロンドン)、ノンバイオレンス・インタナーショナル(本拠地ワシントン)、紛争解決のための ベルグホフ・センター(本拠地ベルリン)、ハーバード・スクールのシモン・フィッシャーとそのチームというような少数の国際的紛争解決組織によって開発され実行されたものである。彼らの目的は、ファースト・トラックではないが、彼らの社会で権力保持者たちと良好なアクセスを持っている人たちを巻き込むことである。

純粋に平和をつくる行動に集中している団体やNGOの数はむしろかなり少ない。これはたぶん、多くの紛争の中の指導層に接近することが容易ではない、という事実によるのであろう。すべての報告書が、この分野で評価を得るのに必要な信頼を築き上げるまでには長い時間が必要だ、ということで一致している。この類の平和創造は、たぶん現地でのいかなる紛争変換の活動にとっても非常に重要な要素なのであろうが、それはたぶん現地の他の活動家たちあるいは、NPの全体の任務の中の一部として小さなグループ(指導?)のいずれかによって取り組まれるであろう。

その一方で、市民たちのイニシアチブの非常に幅広いカテゴリは採り上げられないだろう。それらはすべて、NGO であれ、あるいはさらに非公式なグループであれ、まさに草の根レベルで国際的活動にかかわっており、個人的接触を探し求めて、他の国の人々/グループを支援する、あるいは相互に関心のある問題に関するネットワークを築き上げることのいずれかを試みようとしているイニシアチブである。この行動の一つ目のやり方の例は、ブラジルのストリート・チルドレン、チェチェンの孤児たちあるいはアフリカ各地の教会コミュニティといった紛争地域での社会的プロジェクトや難民のためにお金を集めることを目的に結集した草の根グループがすべて挙げられるだろう。彼らは、主に人道主義のアプローチによって通常紛争地で活動しているが、専門的な援助組織とは違って、彼らの活動が紛争に対して与えるかも知れない影響についての認識をほとんど 持っていないことがしばしばである。二つ目のやり方の例は、特定の問題/紛争、あるいは、地域ベースの問題/紛争のいずれかについて結成された市民的ネットワークである。よりよく知られているものの一つはヘルシンキ市民アセンブリー(HCA)である。これは1990年に、その当時はまだCSCE(全欧安保協力会議)と称していた機構に対抗する市民の鏡として設立された。 HCAは定期的に、すべてのCSCE/OSCE(訳注:CSCEは1995年にOSCE(欧州安保協力機構)に名称変更)の国からの代表グループによる会議を組織して来たし、さらにその地域内のいくつかの紛争に、より具体的な論拠に基づいて関わって来た。その中でもっとも成功したプロジェクトの一つは、1990年に捕虜交換の交渉をなし遂げ、その行動によって国際的表彰を受けたアルメニアとアゼルバイジャンからの2人の女性によっておこなわれたプロジェクトであった。また、市民 だけではないけれども、町村と学校の間を結びつけたプロジェクトがヨーロッパで盛んになっていることも、ここに言及するべきだろう。彼らの多くは、互いに定期的に訪問しあっている活動的なグループの市民によって支持されており、たとえばユーゴスラビアで勃発した戦争の時のような危機の場合の支援を組織している。

これらの活動のすべてはもちろん平和構築の範疇に入るものである。しかし、これらはしばしば人の入れ替わりを伴うのではあるが、非暴力平和隊が最初に目指すモデルとして考えることは難しい、したがって、そしてこの理由だけにより、この研究の以下の章では無視された。

△非暴力平和隊実現可能性の研究・1.3 200年の歴史を振り返って/TOPへもどる