非暴力平和隊・日本

非暴力平和隊:設立総会・プレスリリース
(2002年12月)(日本語訳)

プレスリリース−1(2002.12.1)

現代にいにしえの夢の実現をめざす

47か国からの130人以上の平和活動家たちが、軍事的平和維持軍に取って代わる非武装のグループを創設するための会議が、5日間にわたってニューデリー郊外で行われている。マハトマ・ガンディーは55年前に暗殺されたとき、「平和隊」を創設しようと計画していた。

世界中からの参加者には、バングラデシュ前政府首班で現在は野党を率いているシェイク・ハシナ、国会議員、紛争解決の専門家、前外交官、非暴力的な紛争介入のベテランが含まれている。イスラエル人とパレスチナ人、黒人と白人のジンバブエ人、セルビア人とクロアチア人が、非暴力平和隊を創設するために一緒に活動している。

非暴力平和隊のプロジェクトは、紛争地における軍事的平和維持軍に取って代わる非武装の市民グループを作り上げようとするものである。マハトマ・ガンディーは、暗殺者の弾丸によって暗殺された時、「平和隊」を意味する「シャンティ・セナ」を組織し始めていた。非暴力平和隊の活動は、1999年のハーグの市民平和会議で始められ、国連の「平和と非暴力の文化の10年」の目標を達成するための、市民主導で始められたの最初の主要なプロジェクトである。この「平和と非暴力の文化の10年」の宣言をするよう国連を説得したノーベル平和賞受賞者の7人が、この非暴力平和隊を支持している。それには、レヒ・ワレサ、オスカー・アリアス、ダライ・ラマが含まれている。

ガンディーの人生そのものとその著作は、現代のほとんどの非暴力活動家たちのよりどころとなっている。開会に当たって、著名なガンディー主義者のラジブ・ヴォラはマハトマ・ガンディーの言葉を引用した。「非暴力は、あの山のように古い」。ヴォラには、非暴力の時代が到来したことがはっきりと見える。彼は非暴力平和隊は国連の「平和と非暴力の文化の10年」の最初の市民のイニシャチブだ、と告げた。

非暴力の伝統と、その現代の紛争への適用性がこの会議初日の一貫したテーマであった。開会の講演では、バングラデシュの前首相のシェイク・ハシナが具体的な実例を通して戦争の歴史と非暴力の歴史を概説した。彼女は「私たちは平和のための世界規模の協力関係を創り出さなければなりません」と話しを結んだ。ガンディーの孫娘に当たる南アフリカ共和国議員のエラは、非暴力平和隊が「戦争と暴力のサイクルを止めるためのなくてはならない介入なのだ」と語った。

明日からの3日間にわたって 130人の代表者たちは、6大陸各地域からの理事を選出し、憲章を承認し、非暴力平和隊の最初の派遣地を決定する予定である。

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プレスリリース−2(2002.12.1)

非武装の市民に守られ、野党リーダーは非暴力を支持

「暴力は自己継続的なものです。紛争解決に際して暴力が使われる多くの事例を見ると、私たちはひどく失望せざるを得ないのです。それでは、何故私たちのまわりには暴力がこんなにたくさんあるのでしょうか? 」と、シェイク・ハシナは世界中から集まった平和活動家たちに基調講演で、問いかけた。彼女はバングラデシュの前首相で現在は野党のリーダーである。

ハシナは、非暴力平和隊のプロジェクトが始まって以来の強力な支援者の一人である。彼女がまだ首相であった2000年に、彼女は、国家首脳に国際的な平和部隊を結成するよう呼びかけている。「残念ながら、それ以来、その必要性は高くなっています」と彼女は述べた。

彼女にとって暴力の恐怖は極めて身近で直接的だ。彼女の党のメンバーたちが最近、嫌がらせ、逮捕、拷問、失踪にさらされている。シェイク・ハシナの父親は、バングラデシュ建国の父といわれるシェイク・ムジブルだ。彼は、バングラデシュをパキスタンからの独立に導いたのだが、その数年後にほとんど全家族と共に暗殺された。二人の娘だけは外国にいたために生き残れた。その一人がシェイク・ハシナだ。

平和隊にとって理論を実践する上で、ハシナの身の安全を守ることが、設立総会の最初の課題だった。この会議のボランティアたちが、ハシナが会議場に滞在する間は間断なくハシナに護衛的同行をした。( 暗殺団や人権侵害者たちからの危険にさらされているリーダーの防御として、24時間体制で国際的な人々が取り囲むように同行することが有効であると立証されている) 。非暴力平和隊はこの責任遂行のため、武装した護衛の派遣に固執するインド政府と交渉しなければならなかった。安全を創り出すための違ったやり方を世界に示すためにはどれだけの努力が必要とされるか、ということをこれは示してくれた。

「政府を代表しようと、あるいは、市民社会やメディアや他の部門を代表しようと、私たち一人一人すべては、平和な世界を作ることに寄与しなければなりません。個人個人で、そしてまとまって、平和を求める世界規模の大きな連合を創り出さなければなりません。この会議は、その連合が平和文化の設立に向けての途についたことを明らかにしている」とシェイク・ハシナは宣言した。

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プレスリリース−3(2002.12.1)

サムドン・リンポチェ尊師は「非暴力平和隊は最も重要なもの」と称した

チベットの亡命政府首相であるサムドン・リンポチェ尊師は、非暴力平和隊の創設に関わっている世界各地からの聴衆に対して、非暴力平和隊は「現在の世界でたいへん強く切望されているもの」である、と語った。47か国から集まった平和活動家たちは、軍事的平和維持派遣団に取って代わる非武装の民間組織を作り上げるためにニューデリー近郊に集まっている。

チベット仏教僧は「現在の世界中の暴力のエスカレーションは、前例のないものだ。暴力は、私たちが息づいている正にこの空気の中に、私たちが暮らしている正にこの空間の中に存在しているのだ」と指摘した。彼は、聴衆に対して、持っているすべてのエネルギーを平和作りに投入するように、と力説した。「暴力のグローバリゼーション」に関し、シャムドホン・リンポチェ尊師は「私たちは、グローバリゼーションを、法と秩序の問題、あるいは国家の安全保障の問題であるかのようにだまされている。私たちは、このいずれもが私たちの文明の中の病弊の現れであることを見抜けないでいる。何が治療薬なのだろうか?」

「私たちは、非暴力の社会をどのようにしてつくりだすかを決心しなければならない。暴力が暴力とぶつかれば、片側を一時的に服従させることはできるけれども、多くの犠牲をもたらす」と彼は語った。彼は、非暴力平和隊は、暴力の原因に注意を払い「その原因に取り組む」ことを強く訴えた。サムドン・リンポチェ尊師は、特に兵器産業による「暴力の商品化」を強調した。彼は、世界中の武器産業界と貿易と暴力の増大との間のつながりに焦点を当て、武器取引きの縮小、そして究極的には全面的非武装化に力を注ぐように説いた。

サムドン・リンポチェ尊師は、最後に、非暴力平和隊の必読書として、ガンディーの『ヒンド・スワラージ』(訳者注:「インドの自治」という意味、翻訳版は岩波文庫『真の独立への道』) 、特に暴力と「サッティヤー・グラハ --魂の力(真理の力)」 に関する章を推奨した。彼は非暴力平和隊こそ「正に必須であり、今日的意義があるもの」と最後に結んだ。

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プレスリリース−4(2002.12.2)

パイロットプロジェクトはスリランカに

一日中続けられた長い議論の末、非暴力平和隊設立総会は、この新組織の最初のプロジェクトの派遣先としてスリランカを選ばれた。また、これからの最初の3年間の任期の国際理事会のメンバーを選出した。

スリランカは、地元からの招聘を評価するための諸判断基準のためのデータを集めるために非暴力平和隊の調査チームが訪れていた3か所の紛争地域の一つであった。他の2か所はグァテマラとイスラエル/パレスチナであった。これらの3か所のプロジェクトはいずれもそれぞれに評価基準に合致しており、報告書の中で派遣を熱望していた。

派遣地の選定にいては、何時間もの熱のこもった討議と熟慮の後で決定された。スリランカの調査チームを率いたドナ・ハワードは「私たち非暴力平和隊を招聘した人々は、土地問題と和平プロセスに対する妨害者 によって極めて危険な状態に直面させられている。非暴力平和隊はこれからの数年間にわたって彼らを支援できる、と私は確信している。できるだけ早く彼らに伝えたい」とコメントした。

新しい国際理事会は、1999年5月のハーグ平和アピール会議でこの構想が発足して以来、非暴力平和隊を準備してきた暫定運営委員会に取って代わることになる。新たな理事会のメンバーは、話し合いの末、国際社会の地域的ならびにジェンダー的多様性を反映させて選出された。

国際理事会のメンバーは以下の通りである。

ラム・マニヴァナン:Raam Mannivanan(インド)
ヤン・キム:Young Kim(大韓民国)
君島東彦(日本)
オマール・ディオプ:Omar Diop(セネガル)
ジョン・スチュワート:John Stewart(ジンバブエ)
レナド・クバジ:Renad Qubbaj(パレスチナ)
クラウディア・サマヨア:Claudia Samayoa(グァテマラ)
ドナ・ハワード:Donna Howard(米国)
エリザベス (ラビア) ロバーツ:Elizabeth (Rabia) Roberts(米国)
フランチェスコ・トゥリオ:Francesco Tullio(イタリア)
ティム・ウォリス:Tim Wallis(英国)
フィル・リター:Phil Ritter(米国)
チャイワット・サッターアナン:Chaiwat Satha-Anand(タイ)
マイケル・ポカワ:Michael Pokawa(シエラレオネ/米国)
リン・アダムソン:Lyn Adamson(カナダ)

この他に、国際組織(国際友和会など)、セルパ・ラテン・アメリカ、およびイスラエルの非暴力平和隊メンバー団体から各1名、計3名が理事会のメンバーとして選出される。

理事会は明日、(共同)代表およびスタッフ(職員)を選び、この会議で出された課題等についての長期的活動計画に取り掛かる。

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プレスリリース−5(2002.12.3)

(注:
これは非暴力平和隊設立総会会場からの最終のプレスレリースです。メル・ダンカンとラジブ・ヴォラなどは、12月3日 (火曜日) 、デリー時間の16時に記者会見を開く予定。もし可能ならば、私がデリーを離れる前に、その記者会見の模様をお伝えできるでしょう。不可能ならば、12月5日 (水曜) までには報告します。みなさんのご支援に感謝します。ニック・メレ)

非暴力平和隊、発足

非暴力平和隊設立総会の最終日は、沈黙の祈りで始まり、マハトマ・ガンディーの暗殺された場所における祈りによって終わった。総会の最終日に参加者たちは、組織の問題を討議し、地域グループごとの議論の報告を聞き、新たに選ばれた国際理事会に対する活動計画表を提案した。

この日は、過去と将来の両方を見つめる日であった。代表たちが短期間にわたって遂行すべき課題について語っている時、何人かはさらに未来のことを見つめていた。ある人は、この非暴力平和隊を実際に創り始めるまでには少なくとも50年はかかるのではないかと考えていた。この一日は、ほぼ55年前にガンディーが暗殺された場所への巡礼の旅で終わった。ガンディーの孫娘にあたるエラ・ガンディーにとっては初めての訪れであった。彼女は南アフリカの国会議員であって、平和隊の提案に対する最初からの支援者だった。

世界からの代表者たちとスタッフが、ガンディーの亡くなった地点の碑まで、荘厳に列をなして進むと、皆は祈りの時間のために寄り添い、小さな輪をつくった。インドの代表の一人が、ガンディーの好んでいたヒンズーの祈りを詠唱し、それに続いてパキスタンの代表がイスラムの祈りをした。チベット仏教のご詠歌、スペイン語の「アヴェ・マリア」、フランス語と英語の両方の「主の祈り」など、他の人たちもそれぞれの祈りで続いた。エラ・ガンディーが彼女のおじぃさん、マハトマ・ガンディーの著作からの短かな抜粋を読み上げてこの静かなる時間を締めくくった。

自分たちの国に何を持ち帰るのかを尋ねると、多くの人は「連帯の確認」あるいは「希望」だと応答した。グァテマラのクラウディア・サマヨアは、暫定運営委員であったが、国際理事会にも選ばれた。彼女はこの4日間を次のように要約した。

「私たちはこの数日間たくさんの“誤り”を犯しましたし、明日からも犯すことでしょう。しかし、私たちはこの誤りから学ぶことでしょう。そして私たちは自分の国の中で、自分たちの地域の中で、世界中で、非暴力平和隊を成長させ発展させるつもりです」。

非暴力平和隊プロジェクトに最初に関わった一人であるディヴィド・ハートソーは、次のように語った。「この聖堂の裏手には、ガンディーがあの日滞在していた部屋からたどった足跡がしるされている。彼はその一歩が、非暴力を追求し、公正を追求する歩みの最後の一歩となるかも知れないことを知っていた。しかし彼は次の一歩を踏み出すことを躊躇しなかった。彼に続き次の一歩を踏み出すことが私たちに課された課題だ。世界中の人々が非暴力平和隊という希望を強く心に抱いていることが確信できた、そしてその夢を実現させるたいへん困難な活動に全力を傾けている。私はそれを励みとし帰途につく」。

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