非暴力平和隊実現可能性の研究【第1章 第1節(1)】
第1章 非暴力平和隊のイメージ
1.1 いくつかの概念の明確化 – 非暴力、紛争、および紛争介入
1.1.1 非暴力
非暴力という用語の意味は、必ずしも厳密なものではない。それは行動の品格全体を述べているだけではなく、態度やライフスタイルをも述べている。 非暴力活動家の間では、ライフスタイルが態度の前提条件なのかどうか、あるいは非暴力が原理原則なのか技法に過ぎないのか、ということが論議されている。どちらのアプローチも非暴力が、紛争や政治的もめごとを取り扱うのに有効な手段であり、倫理的な手段であると考えている。何故ならば、非暴力は破壊や人的災害を最小限にするように努めるからである。また両方とも非暴力は、改革主義者のために、あるいは革命目的のために用いられるかも知れない、そしてまた、社会変革(非暴力行動や非暴力蜂起)をうながすために、あるいは歓迎せざる変化(社会防衛あるいは市民的防衛)を阻止するために、用いられるかも知れない、ということに同意している。この二つのアプローチの間の最大の相違点は、掛かり合いの本質、手段と結果の間に想定される関係、一般的な紛争へのアプローチ、非暴力がどのように「機能するのか」について想定されるやり方により反対者に向かう態度、および言及された生き方としての非暴力の問題の中にある。
表1.1 現実的非暴力と原理的非暴力の特徴
条件 | 現実的非暴力 | 原理的非暴力 |
掛かり合いの本質 | 最も有効 | 最も有効 |
手段と結果 | 分離できる。目的が手段を正当化する。しかし、非暴力的な手段が公正ではない目的にも用いられることがある(グロス・マイヤ) | 分離できない |
紛争に対するアプローチ | 矛盾する利害関係。勝ちと負け | 和解、勝ち負けはない |
反対者に対するアプローチ | 必要あれば強制力によって相手に打ち勝つ | 必要あれば自分側の被害を甘受してでも相手を信頼する |
生き方としての非暴力 | 必ずしも必要としない | たぶん |
二つのアプローチの間の相違点は、経験的な問題というよりは観念的な問題なのかも知れない、と言うことは確かに可能だろう。その一方で、反対者に強制するという要素は、ガンディーやマーチン・ルサー・キングのような原理的非暴力のリーダーたちの運動の中にも見られる。どのような行動も反対者に影響を及ぼす。この行動の効果は、それが強制的であれ、説得によるものであれ、反対者側の認知と受けることになる代償次第なのかも知れない。たとえば、1948年のガンディーの死を覚悟した断食が、反対者たちに争いを止めさせたのは、彼らが納得したからではなく、ガンディーの死という政治的代償があまりにも大きいであろう、ということを彼らが感じていたからである。これと同じ行動が、ひどい侮蔑を受けていた無名のクルド人の囚人たちによっておこなわれたが、(無名であるがために)20人を越える死者を出した(2001年5月)。またその一方で、多くの現実的アプローチの主張者たちは、彼ら自身に対する倫理的基盤を公言するかも知れないが、彼らは自分たちの信念を他人に押しつけるべきではなく、合理的な現実的論拠を用いることにより支援を得る方がベターなのではないかと信じている。確かに、活動家たちが何とかして、反対者に対して「あなたに憎しみは持っておらず、あなたの幸福について心配しており、あなたの利害関係を考慮する心構えがありますよ」ということを伝えられるならば、紛争の状態の中に、他の手段では起こし得ないであろう建設的なエネルギーを創りだせるかも知れない。しかしながら、なおも強制の要素がからんでいるかも知れない。「人生が[暴力]と[暴力ゼロ]の間の選択ではなくて、[暴力]と[より少ない暴力]の間の選択であることは明らかだ。時には後者の方がメディアを通して[非暴力]と表現されることがある。」