スリランカ・プロジェクト
スリランカ・プロジェクトの概要
非暴力平和隊(NP)はその最初のプロジェクトとして2003年より、現地NGOの招聘を受け、スリランカでのプロジェクトを開始しました。スリランカでは25年以上紛争状態にあり、7万人以上の犠牲者と160万人以上のも国内外の難民が出ています。
2003年には現地での活動に従事する11人のフィールド・チーム・メンバーがスリランカに派遣されましたが、現在、スリランカ国内4地域に20ヵ国から25人、現地スタッフも含めおよそ50人が活動しています。バチカロア、ヴァルチェナイ、ジャフナ、トリンコマリーに5人ずつです(左上の地図を御参照下さい)。日本からもこれまでに2人が参加してます。
東部海岸のバチカロア地域は、人口の90%以上がタミル人。チームはバチカロアとそこから1時間ほど北のヴァルチェナイにを拠点をおいていますが、ここはムスリム/タミルの衝突やLTTEによる少年兵士の調達によって暴力と緊張状態を経験したところです。
ジャフナは、最北端の半島の町でほぼ100%がタミル人。その多くは政府によって移住させられた人たち。ここではThe Consortium of Humanitarian Agencies(人道支援団体協議会)が主なパートナー団体です。
北東部海岸のトリンコマリーは天然の良港を持った工業地域で、ムスリム、シンハラ、タミルがほぼ同数。トリンコマリーの湾の反対側にあるのがムートルです。トリンコマリー/ムートル地域は、2001年12月の停戦合意以降に起きた暴力による犠牲者が多かった地域で、政府側支配地域とLTTE側支配地域の境界線上にあります。この地域の緊張状態は主にムスリムとタミル間の対立によって生じており、チームの本拠は両コミュニティの中間点におかれています。
これらの地域において、多様なケースでの活動家や市民への護衛的同行、さまざまな団体、組織、個人間とのネットワーク構築、集会や暴力的事態が起こる可能性のある地域でのプレゼンス(国際的監視)、少年兵保護等の活動を展開しています。
これらの活動は地元団体・組織のイニシアチブのもとに展開され、個人の安全性の向上、地域での暴力的事態の減少、問題提起や要望を非暴力的に表明する選択肢の増加、新たなネットワーク構築支援などに効果を発揮することができています。
*スリランカについての基礎知識については、「スリランカQ&A」のコーナーをご覧ください。
紛争の背景
スリランカはインド南端に位置し、人口2001万人、多くが仏教徒のシンハラ人72%、多くがヒンドゥー教徒のタミル人18%、スリランカ・ムーア人8%。宗教別人口は仏教徒70%、ヒンドゥ教徒10%、イスラム教徒8%、キリスト教徒11%ほどです。国土は北海道の0.8倍程度の大きさです。
スリランカは1595年以降ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地となり、英国は、少数派民族であるタミル人を重用して多数派のシンハラ人を統治させる分割統治をおこないました。1948年の独立後は、多数派のシンハラ人を主体とする政府はシンハラ人優遇政策を取り、これに反発したタミル人のグループがスリランカ北・東部地域をタミル人のホームランドであるとして、その独立を求める「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」が結成され、1983年には本格的内戦に発展、以降政府側LTTE側双方で7万人以上が犠牲となっています。
1987年のインド仲介によるインド・スリランカ和平協定による停戦、クマラトゥンガ大統領就任後の1995年の停戦もあるがどちらも破綻に終わっている。そのつど話し合われた和平案も基本的には自治権委譲・拡大が中心であるが、実はこうした案は1957年に話し合われた協定にも盛り込まれており、それ以来合意できずに出ては消え出ては消えしてきました。実際現在も解決案として話し合われているのも権限委譲案です。
1997年に米国がLTTEをテロリスト組織指定したのを始め、スリランカ国内でも非合法団体になり、カナダ、イギリス、オーストラリアなどでも非合法化されていきました。
LTTEは2000年ノルウェー仲介の和平交渉に応じました。ノルウェーにはスリランカから移住した多くのタミル人が住んでいると共に中東和平仲介の実績もあります。2001年にLTTEから一方的な停戦宣言をし、そのままスリランカ政府との2002年停戦合意に至りました。
停戦合意後の動き
その後、和平交渉が進めらますが、合意1年後には最初の武力衝突が起こりました。日本政府が当時打ち出していた、「平和の定着」「人間の安全保障」外交の試金石とすべく、明石康元国連事務次長を政府代表に任命。2003年に第6回和平交渉が箱根で行なわれるとともに、同年スリランカ復興支援国会議(東京会議)を開催、その際開催されたNGO会議にNPJも参加しました。
停戦合意に基づき創設された、北欧5カ国からなるスリランカ停戦監視団(SLMM)のうちフィンランド、デンマーク、スウェーデンは2006年9月撤退。50人からノルウェー、アイスランドの20人の監視員のみになりました。2004年スマトラ沖津波地震で再対立。2006年7月の水門紛争以降500人以上犠牲、4万人以上避難。2006年だけでも1千人以上犠牲となりました。
2004年末にはスマトラ沖大地震・大津波がスリランカにも襲い、多大な被害をもたらしました。インドネシアではこの津波復興を機にアチェ紛争を解決に導きましたがスリランカではこの機会を活かすことができませんでした。
2004年LTTEの分裂、2005年タミル人で和平推進派のカディルガマール外務大臣暗殺、そして対LTTE強硬派のラジャパクサ大統領が就任。LTTEから分裂したカルナ派とも連携し、2006年からは攻勢を強め、2007年11月にはLTTE政治部門トップのタミルセルバンが政府軍の攻撃で死亡、また同月末の攻撃プラバカラン議長の負傷も伝えられました。2007年政府軍はLTTEから東部奪回に成功、更なる軍事攻勢をかけるには停戦合意が邪魔になったと思われます。また2005年以降、EU、カナダなどでもLTTEが非合法化させたことも政府に有利に働きました。
停戦合意破棄
スリランカ政府は2008年1月2日、LTTEとの間で2002年に合意された停戦合意を破棄することを決定しました。これにより停戦合意は16日に失効、SLMMも同日までに撤退。対LTTE強硬派とされるラジャパクサ大統領が2005年11月に就任して以来、軍事衝突が頻発し、それを裏付けるかのように軍事費は3倍に増大、戦闘の犠牲者は6千人以上になっていました。
EUやスリランカ・タミルの最も大きな人口を抱えるカナダでも今回の破棄とその将来的影響には懸念を表明し、最も影響力のあるインドもこの紛争に軍事的解決はありえない、と懸念を表明しました。SLMM代表もスリランカを去るに当たり「最終報告」として「この込み入った紛争に軍事的解決はない」と言明していました。
日本政府も懸念を表明。2007年12月8日にラージャパクサ大統領が来日した折には同大統領は、権限委譲案を早期にまとめるべく取り組んでおり、軍事的解決は政治的解決を代替するものではない、と福田首相に言明していました。しかしその後、政府軍は攻勢を強め、2009年1月2日、LTTEの最大拠点・北部キリノッチをほぼ制圧し、その後1月末にはムラティブも支配下におき、25日フォンセカ軍司令官は事実上の勝利宣言をしました。
追い込まれたLTTEは市民を“盾”に徹底抗戦の構えを見せ、国際社会からは、事態を憂慮する声や停戦に向けた環境づくりを模索する動きも出始めました。
「スリランカ復興開発に関する東京会議」4共同議長国は2009年2月3日声明を発表し「(ノルウェー、日本、米国及びEU)東京会議4共同議長国は、スリランカ北部の戦闘に巻き込まれた何千もの国内避難民の状況に深い懸念を表明する。共同議長国は「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)及びスリランカ政府に対し、スリランカ政府が設定した非戦闘地帯及び500人以上の負傷者が治療を受け、何百人もの人々が避難している」医療施設、地域への砲撃の停止を求め、「両当事者に対し、戦闘に巻き込まれた人々に食糧と医薬品が届くようにするとともに、ICRC(国際赤十字社)と協力のもとで急病人の戦闘地域からの脱出支援、援助・医療関係者の安全確保を求める。LTTE及びスリランカ政府は国際人道法を尊重しなければならない(後略)。」としました。