その他の文書
「政治的に立場をとらないこと(Nonpartisanship)」に関するノート
非暴力平和隊・国際理事 ラジヴ・ヴォラ(Rajiv Vora)
翻訳:小林善樹
この文書は、非暴力平和隊のアジア地域コーディネーターであるラジヴ・ヴォラ氏が、2004年7月上旬にメキシコのクエルナヴァカで開催された非暴力平和隊国際理事会での議論に供するために提出したものである。ヴォラ氏はヴィザが取得できなかったため国際理事会に参加できなかった。そのためもあって、この文書は2004年7月の国際理事会では議論されなかった。これは国際理事会の見解というわけではなく、ヴォラ氏の個人的な考えである。しかし依然としてこの文書は、非暴力平和隊の行動原則のひとつである “nonpartisanship” =「政治的に立場を取らないこと」について考えるにあたって、非常に示唆に富むものであるので、日本語に訳出し、ウェブサイトに掲載することにした。
「非暴力平和隊・日本」共同代表・君島東彦
問題点
「政治的に立場をとらないこと」についての解釈は、「地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創ること」を目的と宣言している非暴力平和隊(以下NPと略す)の綱領と、その綱領の活動上の形態としての、国際的プレゼンス、護衛的同行、割り込み、ならびに人権監視を含むNPの使命によって規定される。
その使命が、上述のNPの綱領の形態の上でどのような意味合いを持つのかについては、さらなる吟味が必要である。相互関係を見れば、この目的と使命の両者は、非暴力的介入の意味を展開したり、再構築する可能性を確かに持っている。スリランカにおけるNPの役割が、与えられた使命の枠組みの中で活動しつつ、地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースをどのように創っていくかは、紛争状況との関係の持ち方と意味合いに、そして、それ故に「政治的に立場をとらないこと」の意味合いと密接に関係している問題である。
私は、「政治的に立場をとらないこと」を非暴力の積極的な原則として提示したい。そうすることにより、私たちは非暴力の行動の規律を発展させ、NPのプレゼンスが「地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創る」ことを可能にする。私は綱領のこの部分を特に強調している、何故ならば、外部団体の介入(TPNI:第三者による非暴力介入)が非暴力であることを何にも増して証明するのは、「地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創る」ことにあるからである。花の説得力は、花が摘まれても、その芳香を残しているという事実にある。もし「平和維持活動」が平和を構築できなければ、「平和維持隊」がそこにいる間だけしか平和は存続しないだろう。依存状態を作るだけのそのような平和維持活動は、非暴力の理念と原則に反するものだ。何故ならば、非暴力は力の点で自立のための武器だからであり、そして、裁判所において、あるいはそのようなすべての介入においてそうであるように、力を得るのは紛争の当事者ではなく、第三者だからである。したがって、外部団体による介入は、紛争当事者および紛争状態の間に、あるいはそのいずれかの間に、非暴力の力を注入する能力において非暴力であるのだ。私は、NPがその綱領の中に「地域のグループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創ること」を含めていることにより、非暴力介入のこの機能をNPが認識している、と確信している。
非暴力介入の意味については少なくとも二つの考え方があると理解されている。非暴力とは暴力のない状態を意味するとする考え方と、非暴力とは、積極的で活動的な愛の力あるいは魂の力である、とする考え方である。 私は後者の考え方をしている。したがって、この考え方に属さない人たちや最初の考え方に属する人たちにとって、このノートには問題や疑問があるかもしれない。しかしながら、いずれの考え方も、少なくとも暴力に反対であるという意味において、一つのそして唯一の非暴力の考え方に属しているのだから、そのような問題や疑問はなんら障害にはならない。したがって、ここで説明されていることは、いろいろな視点の一つとして受け取っていただきたい。
紛争状況における非暴力活動家の役割は、他の事柄を除き主として、「政治的な立場をとらない」と定義される行動によって遂行される。この点に関して、私たちはNPの非暴力を上述の二つの考え方に照らして絶えず精査して行かなければならないだろう。というのは、NPがどちらの考え方に立つのかについて若干の曖昧さがあるように見えるからである。しかしながら、「地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創る、あるいは活性化する」ことは、「暴力が存在しない状態」の非暴力ではないほうの非暴力が意味する考えを採択することを要求する。それは、積極的に働きかけ、鼓舞し、刺激する役割でなければならない。外部団体としてのNPの行為が、地域コミュニティの中で休眠状態の、潜在的な、抑制されている非暴力をどのように刺激するのだろうか?
これまでのところ、紛争地域におけるNPの行動は、主として現存している使命および行動規範(コード・オブ・コンダクト)によって定義されている。そこには、「政治的に立場をとらないこと」を、NPの能動的で積極的な規律の属性である、と定義付けすることにより、私たちの役割を積極的な力と規定する十分な可能性や余地そしてニーズがある。私がこのノートで言いたいのはこの点である。
「政治的に立場をとらないこと」の定義
「政治的に立場をとらないこと」は、紛争状況の中で、どちらか一方につくのか、どちらにもつかないのか、の問題である。何よりもまず、「政治的に立場をとらないこと」の基本的で、最低限かつ無条件に意味するところは、クリスティーネの言葉を繰り返すならば、「紛争中の当事者の係争点(見解)に関して立場をとらないことである。これは、例えばスリランカのタミル族の地域の将来の問題 — 独立か、自治か、あるいは紛争中の当事者に決定を任されている事柄 — についていかなる意見も述べないことを意味するであろう。しかし、「政治的に立場をとらないこと」は、当事者やそれと関わる側の如何を問わず、暴力には声を上げて反対し、人権に関する暴力に反対し、話し合いによる解決に賛成を表明することは認められる」。言うまでもなくこれが「政治的に立場をとらないこと」の基礎的で基本的な意味である。私はこのことが土台であり、「政治的に立場をとらないこと」の意味が、これを土台に、能動的で、積極的で、刺激的な非暴力という脈絡の中で、検討することができるし、また検討されなければならないと言いたい。
この点に関し、「政治的に立場をとらないこと」は、両方の意味を持っている。どの当事者とも提携しないこと、そして、「提携しないこと」よりもさらに一歩進めた「不偏不党(impartiality)」である。不偏不党は、「提携しない」以上のものである。不偏不党には、次のような種類がある。
- 救援団体や人道支援団体の不偏不党
- 裁判所での、法律や判事の不偏不党
- 国連の不偏不党
- 第三者(武装した、あるいは平和的な)介入者の不偏不党
- 非暴力介入の不偏不党
非暴力介入の不偏不党を除けば、上記の中に、受け入れ側のコミュニティの中で休眠状態だったり、抑制されている非暴力を刺激することを想定したものがないのは明らかだ。それゆえにNPはその綱領の中で「地域グループが非暴力的に奮闘するためのスペースを創る」としているのだ。それで、地域の人たちが非暴力的な手法を採ろうとする欲求、動機、能力、持っている力を刺激しようとする非暴力介入者のそのような行動について疑問があるのだ。それは、必ずしもNPの手法でなくてもよいのかもしれない。何故ならば、地域グループの必要条件が、彼らの手法や手段を決めるべきなのであって、それが文化的に部外者であるNPによって想定されたものと同じではないこともあるからだ。
非暴力隊員の規律であり属性である「政治的に立場をとらないこと」が、紛争の当事者や状況との関わり合いについての隊員の態度と考え方を支配している。この関わり合いこそが「政治的に立場をとらないこと」の主題である。したがって、他の関わり合いと同様に、「政治的に立場をとらないこと」でさえも、紛争中の当事者と消極的な関わり合いを持つのか、積極的な関わり合いを持つのか、あいは沈黙を守るのかによって、そして時間的要件や頻度によって規定される。そのなかで沈黙を守るかあるいは消極的な関わり合いを決めることは簡単だ。それは、基本的な意味合いである「政治的に立場をとらないこと」の基本原則での暗黙の了解として、両当事者あるいはすべての当事者から均等な距離を保つことである。
難しいのは、「政治的に立場をとらないこと」の精神を遵守しつつ、積極的な関わり合いを作動させることである。 関わり合いを持たねばならぬのだが、「政治的に立場をとらないこと」のやり方で関わり合いを持つことである。それは積極的な関わり合いを持つ中で「政治的に立場をとらないこと」を作動させる時である。すなわちそれは、「政治的に立場をとらないこと」は、非暴力の一つの属性としてその意味を探求することから始まる、ということを当事者たちの良心に訴えるやり方である。
紛争:当事者と状況
非暴力の力は、それが道義的な力であることにある。「政治的に立場をとらないこと」は、紛争に直接かかわっている当事者との関わり合いだけではなく、紛争状況との関わり合いのあり方と特性を規定している。「当事者」には、直接紛争を引き起こすことに責任のある人たちだけが含まれるけれども、「状況」のほうは、紛争を引き起こしている当事者であるかも知れない人びとや、そうではないかも知れない人びとも含んでいると同時に、紛争を解消する役割を持っているかも知れない人々をも含む。したがって、「政治的に立場をとらないこと」は、紛争を引き起こすことに責任のある当事者ならびにその範疇には含まれないが、その状況の中で紛争が生じ、そして解決される状況の一部を構成している人たちとの関わり合いのあり方である。真実への道としての非暴力は、それを支持する人たちに紛争状況の中にあるすべての当事者の精神的善性への信頼を必要とする。これが積極的な意味での「政治的に立場をとらないこと」に留まる基盤である。紛争当事者から等距離をおくという意味での「政治的に立場をとらないこと」は、ある場合には道義的だが、別な場合には背徳行為となる場合もあり得る。すなわち、紛争と暴力の党派争いの状況に対処する際に、恐怖のない環境を作り出すという非暴力の一般的な基準に適合するものは何であれ「政治的に立場をとらないこと」として分類されるであろう。
非暴力隊員であることの要件が、「不偏不党」/「政治的に立場をとらないこと」の意味を決定すべきであって、それ自体が「第三者」であるという要件によって決定される意味が決めるのではない。
まず第一にもっとも重要なことは、「政治的に立場をとらないこと」は非暴力の属性であって、その逆ではない、ということだ。ということは、もし紛争の状況において、「政治的に立場をとらないこと」が、非暴力の流れと発展を抑制している、という風に理解され実践されているのであれば、それは、「政治的に立場をとらないこと」の装いをしている何か他のものに違いない。
私たちの目的、手段、アイデンティティは、道義的な力、すなわち非暴力としてであって、それ自体「政治的に立場をとらないこと」ではないから、私たちは、非暴力の精神と働きを犠牲にしてまで「政治的に立場をとらないこと」を守らなければならない訳ではない。「政治的に立場をとらないこと」 という方針の意味合いで、もしNPが、その地域の受け入れ側の人びとが平和構築に参加するための条件を創り出さないのであれば、それは「政治的に立場をとらないこと」には忠実であったとしても、非暴力の精神にしたがったものにはならないであろう。
暴力の種類について
暴力には、3種類の当事者がいる。一つ目は、暴力をおこなう直接の行為者であり、二つ目は、そのような行為者を煽動する者であり、直接的煽動者または間接的な煽動者、あるいは目に見える煽動者と陰に隠れている煽動者の両方がいる。三つ目は、沈黙を守ることによって、暴力に同意を与えている者だ。このように、どちらにもつかないことは、しばしば道義的ではない側に与することになる。「与する」か「与しない」かを決める義務と権利が誰にあるのか、という問いが常にある。特に、「第三者」の場合その問いはきわめて重要であり、「その第三者」の性質と特性によってその解釈が違って来る。その紛争に関するすべての当事者は、「その第三者」が真実、すなわちすべての当事者にとって共通の善性、のみに忠誠な関係者と考えるかも知れないし、裁判所でさえも、当事者にとっては真実のみを代表するものと考えられている。そこでその問いとは、私たちは真実を発言する権利を得ているのか? その権利をどのようにしたら得られるのか? ということである。「政治的に立場をとらないこと」の積極的な意味合いが実践されるならば、第三者あるいは部外者をすべての紛争当事者にさらに近づけせしめ、紛争当事者たちの無条件の信頼と信任を得るのである。これが、紛争状況の中で何者をも恐れない状況を創り出す方向への第一歩である。このように、行動と団体についての秘密性を必要とするようないかなる団体も(「政治的に立場をとらない」)非暴力行動の中に位置を占めることはできないのだ。
このようにして、「政治的に立場をとらないこと」は、唯一非暴力の属性として重要なのであって、国連システムの後見人の下ですべての疑わしい意味をもたらした「平和」の属性としてではないのだ。
NPの基本的な任務は、受入れ地の紛争状況において非暴力を最大限に活用することである。したがって、「政治的に立場をとらないこと」もまた、受入れ地の状況の中で非暴力の傾向と属性を鼓舞し最大限に活用するようなやり方で運用できるようにしなければならない。私たちは、非暴力の他何ものも信頼しないので、非暴力で始め、そしてまた、非暴力で終わるのだ。ところが例をあげれば、国連は矛盾する二面を持っている。 国連の最高で最後の神は銃(武力)であるから、国連は非暴力らしく見える形で始めるが、必ず暴力で終わっている。したがって国連の「政治的に立場をとらないこと」は、「ロボット」的であり、「刺激するのではなく」「活動的ではない」ものであり、反-非暴力ではないにしても「非-非暴力」とならざるを得ない。国連が世界的な使命を持っており、それ故にその存在と行動についての正当性を持っていることが、非暴力に徹するものとしての資格を国連に与えるものではない。したがって、非暴力にのみ深く結びついている団体の「政治的に立場をとらないこと」が、国連の「政治的に立場をとらないこと」のやり方に教わるようなことはあまりない。
党派主義者の見方で、ある団体が「政治的に立場をとらない」ものであると認めさせる属性は何か? 「政治的に立場をとらないこと」が単に口頭あるいは書かれた宣言だけであれば、それには何の説得力も権限もない。言葉ではなくどんな行動が「政治的に立場をとらないこと」を立証するのか? 党派主義者である他者が、彼あるいは彼女は「政治的な立場をとらない人だ」と言うならば、その人は「政治的な立場をとらない」人である。自分自身で紙の上にそのような宣言をしなければならない場合は、そうではない。 それは単に行動の意志を示しただけで、行動の中身を示していない。 私は、フィールド・チーム・メンバー(FTMs)が彼らの経験の中から、彼らが活動して来たコミュニティの目に、どのような行動が彼らを「政治的に立場をとらない者」であると確認させたのかを、明快に書き出すことを提唱したい。どのような経験が「政治的に立場をとらないこと」に帰するものなのか?
たとえば
- ある事例で両者から距離をおこうとしている時、すなわち、等距離を置く時、
- ある事例で両者に接近しようとしている時
- ある事例で、一方には接近して行くが、他方には、離れる訳ではないが、接近しない時
- 他方にはかまわず、一方に対して行動を起こしている時
- 両者に向けて行動を起こしている時
- どちらにも行動を起こさず、神だけに働きかけている時
「地域グループが非暴力的に奮闘するスペースを創ること」のために、「第三者による非暴力介入(TPNI)」の属性として、「政治的に立場をとらないこと」はどのように働いているのか?
等距離を保つことは「見てはいても正々堂々としゃべらない」ような行動において実践される。 たとえば、ある当事者が他者に対して悪事を働いているのを私が見たとする。私の使命は、人権侵害に該当するそのような行動を監視することだ。私はそれらを監視し、たとえばそれらを記録し、書類にし、報告書を作成し、それを提出する。そのような「政治的に立場をとらない」行動は、紛争状況の中で非暴力を鼓舞し、確立するのに役立つ行動なのだろうか?
地方行政機関がそのように分割され、沈黙させられている状況にあっては、誰かが真実をはっきりと話さなければならない。このように、真実をはっきりと話すことは、「政治的に立場をとらないこと」の機能であり義務である。しかし、NPは「第三者」として、不利な立場におかれ、資格はなく、制約を受けている。NPは国内の第三者ではなく、部外者であり、外国からの第三者なのである。真実をはっきりと話す権利を得る前に、資格を確認させる必要がある。 真実をはっきりと話すことについては、不法行為者を公衆の目にさらし、その結果として公衆の圧力を引き起こすことのないように、適切におこなうことが求められる(それは、その地域生え抜きの人たちの課題であり、部外者にとってはそれは政治的な活動となるであろう)。しかし、不法行為者の良心を目覚めさせるために、そのような事例の真実を適切に使うことは、部外者である第三者と国内の第三者の両者にとって非暴力の行為である。非暴力のためのスペースが創り出されなければならないのは、ここなのだ。「第三者による非暴力介入」の役割が活性化されるのは、ここなのだ。それは大変身を経験する。それは、人権侵害の監視役や護衛的同行者などという立場から、不法行為者の良心を目覚めさせるために、みずから苦しみを引き受ける者であるサチャグラヒ(*)(良心的不服従者)の役割に入って行く。そのような関わり合いが確立されている場合にのみ、みずからの苦しみが他者の良心に触れることができるのだから、人はみずから苦しみを引き受ける権利を得なければならない。ここで問題は、良心の問題が「トレーニング」の科目になっていないことである。多分それは「トレーニング」の科目とはなり得ないからなのだろう。しかし、第三者の監視員などとしてのその人の役割のサチャグラヒあるいは良心的不服従者への大変身の必要性に何らかの光が当てられなければ、非暴力介入者としてのNPの役割は不完全なものに留まるかも知れない。 非暴力の問題では、不完全な非暴力は時には危険なのだ。
活動的で有意義な非暴力的「政治的に立場をとらない」人の存在は、その周囲の同じ属性の人を活気づける。このように、スリランカでの私たちの存在が非暴力を活気づけるならば、その存在は意義深いものだ。繰り返すが、有意義な活気づけとは、活気づけられた者が、第三者介入という外部の活気づけへの依存を必要としないものである。
「第三者による非暴力介入」の本来の趣旨は、それ自体が目的ではないことだ。もしそれ自体が目的であると考えられているならば、暴力による二党派間の紛争解決の方が望ましい。 平和を維持するための第三者への依存は臆病であり、臆病は暴力の最悪の形式だ。したがって、第三者の介入は、その介入が平和を「維持」するのではなく、平和を築く場合のみ「非暴力的」である。 これについて、「第三者による非暴力介入」に関するガンディー派の解釈とシャープ派(**)の方式との間には、視点の違いがあるかもしれない。しかしながら、いずれもNPを拘束するものではないかもしれない。しかしNPは非暴力の原理によってしか拘束されない。受入れ国の人びとの中で抑制されている非暴力あるいは休眠中の非暴力を活気づける者としての「第三者」は、あるタイプ の役割を引き受けるのに対して、平和の「維持者」としての「第三者」はこれとは異なったタイプの役割を引き受けている。少なくとも私の推論では、NPの最も基本的な機能は非暴力を活気づけるものとしてである。2年後に私たちのプレゼンスは非暴力平和隊が保護した人命や(誰宛てとは言わず)報告された人権侵害よりもむしろ、創り出された非暴力の環境(紛争当事者の人びとが恐怖心を持たず、非暴力を信頼し、対話の環境があるなど)を通して実証されるであろう。私たちのプレゼンスは、同じような非暴力の活動により刺激され活性化されるであろうグループや個人個人を通して証明されるであろう。このような観点に立って、私たちは非暴力平和隊のスリランカでの展開期間中において護衛的同行や人権問題監視などを意味あるものとすることができるであろう。
このように、紛争中の当事者との関係だけが重要なのではなく、「当事者ではない人びと」との関わり合いも同様に重要である。当事者ではない人びとの活性化は、外部の非暴力介入が関心を持つべきものである。それは「政治的に立場をとること」ではない、かつて不法行為の犠牲者であった者が不法行為を犯す者になれば、非暴力活動家は同じような対応をするであろう。彼らは非暴力の信奉者であり、したがって非暴力的な良心的不服従の活動を通じて人を差別しない。彼らの行動(方針)は彼らの活動の対象者が誰であるかによって左右されるものではない。これは非暴力的「政治的に立場をとらないこと」の一つの重要な意味合いである。
そのようなダイナミックな非暴力的「政治的に立場をとらないこと」が拠って立つ論理的根拠は信頼構築、信任構築活動と行為によって創造される基盤である。それは、
- これらの人々は私利私欲を持たず、思惑を持たない
- 彼らは恐れを知らない
- 彼らは自分たちの心に究極的なすべての善を持っている
- 彼らは調和した平和の大義のために自らの受難を引き受ける準備ができている
- 非暴力に対する彼らの信念は絶対であるが、能力の方はそうではないかも知れない - すなわち、能力に限界がある場合は、最終的に銃による後ろ盾を持っている合法とか法律のような手段や政府機関に頼るよりはむしろ、彼らは引き下がろうとするだろう。
- 彼らは、秘密主義ではなく、また秘密に頼る手段を採用することはない。(秘密主義と守秘義務とを混同しないこと)
ひとつの例
少年兵士と子どもたちの誘拐ならびに新兵募集に関する事例をとりあげよう。これは例えば、紛争状況との積極的な関わり合いの方式の中で「政治的に立場をとらないこと」の意味を考え直しているNPにとって適切な事例だ。この問題を取り扱う一つの方法は、秘密裏にサービスを提供することによって、秘密の関わり合いモードに入り込むことである。このやり方は、短期的には価値があるように見えるかもしれないが、長期的には生産的なやりかたではなく、たとえ短期的な見地であろうとも、「政治的に立場をとらないこと」を侵害するものであることは論を待たない。それにもかかわらず任務の意識は、NPは、自分たちの子供を救って欲しいという両親たちの要請に基づいて行動することを要求する。この領域の問題では、NPは、誘拐者であるLTTEの良心に訴えるという大衆行動を企てることにより、「政治的に立場をとらないこと」の意味を拡大することができる。 たとえば、望ましい非暴力介入は、断食を企てることだろう。そのような行動は、かかわりのある当事者とのかなり多くの準備作業と対話を必要とするだろう、そして、その人たちの行動に対してNPのボランティアは断食を始めるような行動を企てるかもしれない。これを、私は積極的な「政治的に立場をとらないこと」と呼びたい。このようなレベルのかかわり合いは、信頼醸成がある程度のレベルに達した後でのみ可能となる。関係する当事者が、介入者はすべての当事者を均衡に扱い、紛争の政略には興味を持つことなく、恐れることなく、そして不公正の側を攻撃することなく、公正の側に立つものとして、「政治的に立場をとらない」者である、と認識した時信頼は醸成される。これが「政治的に立場をとらないこと」はどのように機能するのか、である。確かに、採択された非暴力と活動家のレベルによって、それはさらにずっと多くのやり方で機能している。
2004年5月30日
訳者注
(*)サチャグラヒ:
ガンディー哲学の中核をなすサチャグラハの運動者たちをいう。 サチャグラハを簡単に説明することはむずかしいが、『ガンディーの生涯(上)』(クリパラーニ著、森本達雄訳、第三文明社発行)によると、「積極的な非暴力の抵抗」を意味すると説明されている。 『わたしの非暴力1』(森本達雄訳、みすず書房発行)によると、ガンディーの非暴力は、権力側に対して不平・不満を陳情するだけのいわゆる(消極的)無抵抗主義ではなく、相手の良心に訴えて、良心を目覚めさせるために、犠牲を恐れることなく非暴力で(積極的に)立ち向かうのだ、銃を構えているところに、非暴力で次々と向かって行けば、相手の方が逃げ出してしまうのだ、と書かれている。
(**)シャープ派:
非暴力による「市民的防衛論」の主唱者であるジーン・シャープ(Gene Sharp, 1928~)の学派を指す。シャープの著書の邦訳として『武器なき民衆の抵抗:その戦略的アプローチ』(小松茂夫訳、れんが書房)がある。寺島俊穂氏の論文「市民的防衛の論理」(大阪府立大学紀要〔人文・社会科学〕第39巻、1991年)によると、シャープは「非暴力行為とは、説得の試みであるだけではなく、力の行使である。それは、人間の本性が『善』であることを前提にしたりはしない」と述べているとのことで、ここのところにガンディーとの違いがあるように思われる。