非暴力平和隊・日本

資料

『非暴力平和主義の可能性』

君島 東彦(きみじま あきひこ)

本稿は『ピープルズ・プラン研究』第15号(ピープルズ・プラン研究所、2001年8月)63〜65頁に掲載された原稿である。

1、ハーグ平和アピール

世界の平和運動にとって「ハーグ平和アピール」は画期的なものであったと思う。1999年5月にオランダのハーグで開催され、世界中から1万人近い人々が参加した「ハーグ平和アピール市民社会会議」を結節点として、この会議の準備プロセス、とりわけ「21世紀の平和と正義へのハーグ・アジェンダ」の作成、5日間にわたる会議での討論、そして「ハーグ・アジェンダ」を実施していくプロセス----このプロセスは今まさに進行している、これら全体=「ハーグ平和アピール」は、20世紀を総括し21世紀を展望する時点での、世界の平和運動の認識と実践を集大成するものであった。

ハーグで会議が開催されたとき、NATOはユーゴを空爆していた。会議ではコソボ問題に関するセッションもあり、激しい議論がなされた。ハーグ会議に参加した世界の多くのNGOはNATOのユーゴ空爆を批判する声明を出したが、他方でコソボにおける人道的危機に対し、現に進行している殺戮をとめるための武力行使は必要であるとする主張もまたあった。殺戮を傍観するのか、武力行使するのか。平和運動にとって、「コソボ」は厳しい試練だった。

ハーグ平和アピール会議において、ひとつのワークショップがあり、それが重要な問題提起をしたことは、そのときあまり注目されなかった。それは「訓練された市民平和活動家の活用の促進」というワークショップで、「国際平和旅団」(Peace Brigades International、PBIと略称される)というNGOが中心になって準備したものだった。

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2、NGOによる非暴力的介入

それでは、国際平和旅団、PBIとはどのようなNGOなのか。PBIは、1980年代以降、世界各地で活動が活発になった「第三者による非暴力的介入」の手法を実践するNGOのひとつである。これは完全に非武装の市民ボランティアが紛争地域へ入っていき、そこで非暴力的な民主主義運動、人権運動などに従事している人々に付き添うことによって殺戮や紛争の暴力化を予防しようとする試みである。このNGOはあくまでも地元の運動体、活動家の要請に応じて派遣され、地元の人々が対話により紛争の平和的解決を追求できる環境をつくりだすことを目的としている。外から「平和」や「正義」を押し付けるものではなく、このNGOが紛争を「解決」するわけではない。紛争を解決するのは地元の人々である。

このような「第三者の非暴力的介入」のNGOは、世界に20以上あり、コロンビア、メキシコ、グァテマラ、ニカラグア、バルカン諸国、イスラエル/パレスチナ、スリランカなどで活動している。そして、これらのNGOは一定の成果を収めているのである。

非暴力的介入NGOの活動が活発になったのは1980年代であるとしても、その起源はガンディーの「シャンティ・セーナ」(=平和隊)にある。ガンディーは、インド国内において非暴力的に紛争を予防ないし転換するものとして、「シャンティ・セーナ」=平和隊を構想し、これはガンディーの死後実現された。このガンディーの構想が受け継がれ、とりわけ1980年代から世界的に具体化されるようになったのである。

コソボで人道的危機が発生したとき、非暴力的介入NGOの活動家は、彼らの組織の不十分さを嘆いた。これらのNGOは規模が小さい。紛争地域へ派遣されるメンバーはだいたい10人から数十人規模である。ある者は、もし1995年までに1000人の活動家がコソボに入っていれば、1998年に勃発した暴力的な事態を回避しえた可能性が高いと考えている。非暴力的介入NGOの活動家は「コソボの悲劇」を痛恨の念をもって想起している。そして、この悲劇を繰り返さないために、人道的危機に際して、緊急かつ大規模に派遣できる組織の必要性が感じられた。これが「非暴力平和隊」の構想である。

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3、「非暴力平和隊」プロジェクト

ハーグ会議のワークショップにおいて、非暴力的介入NGOの手法をより大規模に展開する構想が生まれ、この構想は「非暴力平和隊」を創設するプロジェクトとして具体化された。そして、ピースワーカーズというNGOの活動家、デイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンが「非暴力平和隊」プロジェクトの組織化に乗り出した。

ハーグ平和アピール会議から1年後の2000年5月、ニューヨークの国連本部で「ミレニアム・フォーラム」というNGOの会議が開かれた。この会議のときには「非暴力平和隊」プロジェクトは相当に進行し、具体化されていた。

わたしは「日本ハーグ平和アピール運動」の代表としてこの会議に参加した。そこでデイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンに出会い、「非暴力平和隊」プロジェクトについて突っ込んだ意見交換をした。デイヴィッド・ハートソーは「非暴力平和隊」プロジェクトの準備のために、12月のほぼ1か月間、東アジア6か国を訪問した。その際、日本にも1週間滞在し、日本の主要な平和NGOと会合を持った。日本の平和NGO関係者は「非暴力平和隊」プロジェクトについてデイヴィッド・ハートソーと率直な意見交換をした後、日本からもこのプロジェクトを支援していくことで意見が一致し、「非暴力平和隊日本グループ」を結成した(12月2日、東京)。そして、わたしが日本グループのコーディネーターをつとめることになった。

日本グループはその後、ほぼ月に1度のペースで集まり議論をしてきたが、5月3日の憲法記念日に合わせて、「非暴力平和隊」プロジェクトを広く知らせるイベントを企画し、4月30日に東京・文京シビックホール会議室で講演会を開いた。PBIのメンバーとして1994年にスリランカで活動した経験を持つ大畑豊さんとわたしが話をした。当日は150人を超える参加者があり、とりわけ女性と若者が多かったのが特徴的だった。6月30日には、京都の立命館大学でも同じようなセミナーを開いた。

「非暴力平和隊」の構想は、PBIの経験に基づくところが多く、基本的にはPBIの手法を大規模に展開するものといってよい。その詳細は後記のウェブサイトに掲載されている「提案」と「ニューズレター」でご覧いただきたいと思う。

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4、展望

「非暴力平和隊」プロジェクトはいま調査研究段階にある。非暴力的介入NGOの経験が豊かなメンバーからなる調査研究チームが7月下旬に報告書を提出することになっており、それをうけて国際運営委員会が7月末にミネソタ州セントポールで開かれる。そこで、プロジェクトの進行予定が具体化されるだろう。次のステップは、パイロット・プロジェクトとして、実際に一定の規模のチームを、必要とされる紛争地域へ派遣することになろう。そして、フィードバックを繰り返しながら、「非暴力平和隊」をつくっていくのである。

もちろんあらゆる場合に非暴力的介入の手法が有効であるというわけではない。この手法の「妥当範囲」を画定する必要がある。しかし、人道的危機に対して、傍観するのでもなく、武力行使するのでもなく、非暴力的に対処しようとする努力は、これまであまりにもなされて来なかったと思う。非暴力の妥当範囲は相当に広いはずである。

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ティム・ウォリス非暴力平和隊事務局長 来日講演
『非暴力で紛争をいかに解決するか
〜スリランカにおける非暴力平和隊のチャレンジ』

講演者:非暴力平和隊事務局長ティム・ウォリスさん
日時:2010年3月6日(土)14:00〜17:40
場所:立教大学池袋キャンパス

【講師紹介】

ティム・ウォリス Tim Wallis
非暴力平和隊(NP)国際事務局長。
英国ケンブリッジに巡航ミサイル基地建設反対運動で中心的役割を果たし、その後ブラッドフォード大学にて平和学博士号取得。市民非暴力介入の草分け的国際NGO・PBI(国際平和旅団)国際事務局長、ピースニュース編集長、NATIONAL PEACE COUNCIL や Peaceworkers UK、 International Alert でデイレクターを務め、バルカン・ピース・チームなどコソボ、ヨーロッパ各地の紛争調査、平和チーム派遣、トレーニングに関わる。ヨーロッパ市民平和隊を提案し、その創設提案はEU議会において承認された。
 NP設立に関わると同時に初代共同代表になり(2002〜2007)、2008〜2009NPプログラム・デイレクター、2010年より現職。今回は立教大学「平和研究」プログラムで招聘され来日した。
(講師紹介はNPJ事務局、以下報告は、池住義憲(立教大学大学院教員))

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紛争解決に役立つのは誰か

 紛争地域外にいる私たちは、何をしたら紛争解決に最も役立つのでしょうか。今日紹介する事例はスリランカですが、非暴力平和隊(NP)がかかわるどの国においても、戦争を終結させ、平和を定着させるために皆さんができることは、日本をはじめどこからでも沢山あります。一方では、国連をはじめ米国などが当事者として軍事介入により、戦闘を停止させ、何らかの秩序を回復する努力がなされています。ご存知だと思いますが、インドはスリランカ紛争のある時点で平和維持軍を送り込みましたが、それにより戦争状態を緩和させるどころか拡大させてしまいました。

 常に、そうなるというわけではありませんが、軍事力をもって地域における戦いに分けて入り、両当事者間の争いをやめさせるという考え方自体に矛盾があります。意味をなさないばかりか、大半の場合、うまくいっていません。

国連の平和維持軍

 国連は現在90億米ドルあまりを毎年使い、世界の17紛争地域に12万人の軍事平和維持軍を派遣しています。それらどの国においても、国連の存在により紛争が実際に解決されたことはありませんが、平和と安定を一定期間もたらすことが場合によりできており、そのことは言うまでもなく暴力的な紛争に苦しむ一般の人たちにとってよいことと言えるでしょう。

 しかし、ほとんどの国連平和維持軍は、人に銃を向けて徘徊しているよりましですが、実際には何もしていない。平和維持軍の存在自体が、国際社会に現地の状況に重大な関心を持たせ、目を光らせていることを示唆しているのです。その実をあげるために、平和維持軍は何をしなくともよい、そこにいることでその効果があるのです。もっとも、先ほど言ったように状況を治めるというより悪化させることはありますが。

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軍事要員と市民、どちらが効果的か

 平和維持軍が、暴力を縮小するのに良い効果をあげたとされる場合があります。それは軍服、戦車やヘリコプターなど武器の存在によってではなく、彼らの物理的な存在によるものです。そうであるなら、軍人を送り込む必要があるのか、民間人でよいのではないか、ということになります。

 民間人は軍人よりずっとお金がかかりません。高価な武器や軍隊が使う銃器を使う必要がないからです。それだけではなく、民間人は、兵舎でトランプ遊びをして時を過ごし、たまに道路を巡回する兵士よりずっと多くのことができます。まず地元の人たちと話しあう。そして、技術やモラルサポートなどを提供することができます。話し合うことにより信頼を築き、失われていたコミュニエーションを復活させることもできる。

 驚かれるかもしれませんが、ほとんどの状況において市民の方が軍事要員より仲間の市民を実際によりよく保護することができるのです。これは、まさにこの7年間、私たちのスリランカでの主たる役割でした。このことは後でお話します。

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紛争地域外の人に何ができるか

 戦争や暴力的な紛争地域の外から何ができるか、という問題についてまとめておきたいと思います。政治家が安易に軍事介入を選ぶのは、ほかの手段を知らないからです。日本のような国においてですら、ビルマ、パレスチナ、スリランカ、ダルフールなどの状況に対する政治的な議論は、驚くほど創造的な論議に欠けています。暴力や紛争を停止したり予防する数多くの手段は国連をはじめ、各国政府、一般市民にありながら、危機においてまず軍事オプションが選ばれるのです。

 軍事介入といかないまでも制裁があり、国際社会が戦争や暴力を予防するためにとる手段として、経済封鎖、輸出入禁止、スポーツ・文化交流の中断、旅行禁止、外国資産の没収などの制裁を課すこがあります。国際犯罪法廷における戦争や人類に対する犯罪の告発などもあります。最近では、国際社会は、罰則の代わりに貿易、援助、経済協力、技術支援など多くの方策をつかい、戦争当事者を戦場から交渉の場に着かせることが試みられています。

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リベリアの女性

 紛争は、最終的には紛争当事者だけが解決できるのです。実際に戦闘している人びとだけではなく、両当事者に挟まれた中道・穏健派―普通の人たち、とりわけ女性が解決できるのです。何人の方が、「リベリア内戦を終わらせた女たち」(Pray the Devil Back to Hell)という映画をご覧になったでしょうか。この映画は、紛争や殺し合いにうんざりしたリベリアの女性たちが立ちあがった話しで、戦っていた人たちを座らせ、和平を話しあうことを要請しました。そして、合意に至る兆し見がえないまま長引くと、女性たちは会議場の出口をブロックし、合意に至るまで外へは出さなかった。このような状況において、普通の人たちが殺し合いを止めさせるために何ができるかを描いたパワーフルな映画です。

 リベリアの女性は勇敢で固い決意を持っていましたが、全ての国にそのようにリスクをとる能力や意思がある人がいるとは限りません。スリランカの場合は、30年も続いた内戦中にリスクを犯し、殺害されてしまった人の数は多い。また、国外に逃れた人、リスクを伴う機会を前にしながら口を閉ざしてしまった人もいます。そういった人たちは何処にでもいます。スリランカをはじめ、どこの紛争でも解決できる人、人を殺めることは問題解決の道ではないと説得できる人、クリエイティヴで想像力を働かせ、誰も考えたことのない妥協案や代替案を、両者を満足させ得る道を考え付く人はいるものです。そのような人は、残虐な対立の中で最も暗い日にもいるものです。

 紛争地域外の人たちができる最善のことは、そのような人たちを支援し、紛争解決を彼らができるようにサポートすることです。私たちには解決できないが、現地のその勇敢な人たちにはできるのです。

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地元地域の人々をサポート

 紛争解決、戦争停戦、予防の戦略として最善のものは、自らの状況を変えることができるチャンスをもっている地元の人をサポートすることです。その人たちは、紛争を終わらせるために重大な役割を果たしたリベリアや北アイルランドの女性たちのように、良く見える存在であるかもしれません。大部分は和平のために努力をしているリベリアの女性、北アイルランドの女性、紛争を終焉させる上で重大な役割を果たした人たちであるかもしれない。然し、ほとんどは、人目を引くことなく、いろいろな方法で状況を変えるべく静かに努力している人たちかもしれません。

 平和活動家だったり、人権擁護団体で働いている人、ジャーナリスト、弁護士、教員であったり、世の中のことに目覚めている普通の人たちなのです。少年兵士の母親であったり、殺害、あるいは蒸発してしまった人の親戚縁者だったり、拷問やその他の虐待や犯罪の犠牲者だったりします。戦闘により家を追われ、持ち物を全て失った人たちであるかもしれません。いずれにしても戦闘や人を殺害することなく目的達成にはよりよい手段がある事に気づいた人たちです。その人たちを探り当てなければなりません。

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岐路に立つスリランカ

スリランカでは、これらの全てのカテゴリーにおいて志を同じくする人たちを探しあてることができ、30年におよぶ内戦解決の彼/彼女らの努力を助けたのです。皆さんもご存知と思いますが、スリランカの内戦は平和裏に終結できず、一方の他方に対する完全な軍事的な勝利と抹殺で達成されました。平和努力という意味では、良い結果とはいえませんが、問題は次に何が起こるかです。スリランカが、他所で良く見られるように、単にまた暴力と戦争の循環に落ち込んでしまえば、私たちの努力はある意味で無駄だったことになってしまいます。しかし、スリランカが暴力に更に輪を掛ける悪循環を断ち切って、平和と安定の道を歩み始めることができたなら、私たちの戦略が成功した、努力が報われた、といえます。

 スリランカは、疑いなく岐路にたっています。平和へ向かうか、戦争に戻るか。いずれにも転ぶことができます。決定的な因子は、今話をした普通の平和を求め、生活を営むことを望む人たち、あらゆる当事者の中にいる穏健派、大砲や銃器や戦争ではなく平和的で民主的な手段により目標を推進したい人びとです。中道穏健派の人たちをどのようにサポートしてきたのか、とくに「平和か戦争か」がかかっている現在、どのようにサポートするのかが問われているのです。

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非暴力平和隊の活動

 さて、非暴力平和隊の活動、非武装市民による平和維持とよんでいることについてとりあげます。前述のように、12万人からの平和維持軍が国連に存在しています。彼らの任務は、停戦協定の監視、国境沿いのパトロール、暴力の予防あるいは削減、市民保護です。先ほども言いましたが、多くの場合、市民の方が軍事要員より、特に市民保護において、より良い仕事ができます。平和維持部隊にしても平和維持のための市民活動にしても、紛争解決は地元の人がやらなければならないことなのです。そのためには、彼らの安全が確保されていなければできないし、努力中に殺害されてしまいます。
 ジャーナリストは、当事者以外の市民に影響力をもつ重要なグループです。問題を質し、現状を報告し、現実を曲げる人たちに疑問を呈することができます。ジャーナリストの存在は、情報や戦況について報告されることを管理したい人たちに対する脅威です。スリランカだけで、この5年間に、殺害されることを予知し、死亡記事を先に書いた有名な新聞紙の編集者をふくめ34人のジャーナリストが殺害されました。その間、国外に逃亡したジャーナリストは何十人に上ります。
 非暴力平和隊の仕事の一部は、重大な脅威に曝され国外に出国したい人を助けることでした。残ったジャーナリストは、恐ろしくて何も言えない。実効ある自己検閲が作用したことになり、スリランカの人たちはこの数年間、何が実際に起こっていたかを知りえなかったのです。この岐路とも言うべき重大なときに当たり、非暴力平和隊の仕事は、ジャーナリストの他国への逃亡を助けることではなく、帰国を促すことにあります。ジャーナリストが、厳しい質問を行ない、報告することなくして、スリランカが正しい道を選択する機会は大幅に狭まるからです。
 同じことが人権擁護活動家、弁護士、穏健な政府官吏、穏健なタミル政治家にもいえます。これ等の人の多くが、30年戦争間にあるいは殺害され、口を封じられ、多くが国外に逃れました。今こそ、彼らがスリランカにとどまり、発言することを助けていかなければならない。この人たちこそスリランカを良い方に変えることができるのです。
 非暴力平和隊の主な仕事は、平和活動を地元の人たちが安全に行えるよう彼らを保護することです。それぞれ立場の違う人たちに対し、異なる手段を用い行なっています。ジャーナリスト、人権活動家、穏健政治家などとの共同作業をしています。スリランカの未来の鍵を握る彼らが、内戦後における平和と節度、公正を進める役割を果たして欲しいからです。
 また、重要なのはタミル人、とりわけ最近の闘争により家財を失った人たちです。スリランカ社会の一部として、平和な多民族社会に統合されるか、またはさらに阻害され、自己権利と民族自決のための戦闘に早晩もどってしまうのか。後者に向かわず、前者の道を歩むことを保障できるか。これもまた、主として彼らの保護にかかわる問題です。

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国家の義務と責任

 国家の主たる義務は市民の保護にあります。その機能が作用しなければ、市民は自己防衛のため、群集による正義を求め、義勇団を組織、武器を保持する道を選んでしまいます。その状況を避けるため、警察、法廷、その他の政府制度が、全ての市民に対し公平に機能しなければなりません。少数派であるタミル人は、政府の手により膨大な苦悩を被り、何千何万の人たちが家を失い、何万人にも上る人たちが殺害されており、当然ながらスリランカ政府を恐れ、援助するといっても当局との接触を嫌います。
 その状況下での私たちの仕事は、人命保護、人権擁護に当たる警察や人権委員会、その他の当局に市民が問題を報告し、然るべく措置がとられるよう、制度を強化することにあります。同時に、一方でタミル人をはじめその他の犠牲者に政府サービスを使うよう、まず問題の報告を進めることにあります。そのためには、警察まで同行し、実際に然るべき措置が取られるのを見届けることでした。時には、人権委員会の人権侵害の訴え調査に同行し、しかるべき措置がとられるのを見届けることも含まれました。スリランカ軍部に対し、人権及び人道支援の講義をおこない、国際法における軍人としての責任を理解するとともに、責任を乱用した際の処罰について知ってもらうことでもありました。

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公正な選挙

 選挙を行なうことも、市民が苦情を登記し、暴力に訴えることなく平和裏に政府に影響力を行使する道です。スリランカにおける選挙は常に暴力的で、最近の大統領選挙も例外ではありませんでした。候補者は、権力者を脅かす対立候補として暗殺されます。投票所に手榴弾が打ち込まれ、選挙日に投票しないようにする、などあらゆる脅しや恫喝が手段として使われます。投票結果を左右する不正行為はいうにおよばずです。
 スリランカには、投票権を行使し、暴力や不正を予防するための選挙監視組織があります。非暴力平和隊がしていることは、特に危険な地域において地元の選挙管理員を保護することです。有権者が安心して投票することを保障するためです。この厳しい時期、次の総選挙がスリランカの明暗を決めます。選挙関連の暴力を減らし、それぞれが地元の利害や政見を代表する候補者に安心して投票することができれば、スリランカが暴力ではなく民主的な道を選ぶ機会ができます。

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少年兵の問題

 もうひとつ、数年にわたり手がけてきたのは少年兵の問題です。拉致や暴力的に家族を恫喝することにより子どもを連れ出す手口です。スリランカは、世界中の少年兵の最悪な記録保持者です。嬉しいことにこれを完全に撤廃すること日が近づいています。
 この行為が長く続いたのは、タミルタイガー(LTTE)などの武装集団が子どもを要求・拉致することへの恐れだったのです。然し、スリランカには沈黙の文化が存在しており、社会全体が見て見ぬ振りをすることにより、暗黙の承認を与えられてきた面があります。UNICEFなどの組織が長年この問題を手がけ、止めさせる努力をしてきたのですが、非暴力平和隊がしたことは、子どもたちやその家族、特に母親たちにこの慣習を質し、やめるべく要求することを仕向けることでした。
 ジャーナリストや人権擁護者と同様に、非暴力平和隊はひととき、武装集団に拉致されることがないよう、子どもたちをひそかに一定期間安全な場所に隠したことがあります。そのことは直接問題に対応することにならず、むしろ当初の対象だった子どもたちではない、他の地域や他の家庭の子どもたちが拉致された結果を招いてしまったのです。
 この状況を変えたのは拉致された子どもの母親たちが直接ジャングルの中の収容所に出向き、子どもを返すよう要求したことでした。先の状況を掌握したリベリアの女性とおなじようでもあり、母親たちが大胆な行為がゆえに殺害される恐れもありましたが、されずにすんだのです。スリランカでは、子どもの徴兵は許されない、というところまでカルチャーが変わってきています。

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代替案の開発を

 これらは、非暴力平和隊がスリランカにおいて、地元の人たちが事態を掌握して、長年に亘り国を支配していた暴力の連鎖に歯止めをかける奨励を行なった数例にしか過ぎません。
 スリランカの将来は確かに不確実で、非暴力平和隊が行なうこのような仕事はこれからも続きます。それは世界の未来がかかっているからにほかなりません。これ等の状況において暴力が支配することをゆるしてならない。暴力により最も被害を受ける人たちこそ、広島の被爆者であれ、2001年9月11日にワールド・トレード・センターで命を失った人たちの親戚縁者であれ、スリランカで爆破され、抹消された村落民であれ、暴力は暴力を生み、更なる悲惨さ、死、苦しみと破壊を招くだけであることを知っているのです。
 私たちの間の差異を解決するより良い方法はあります。その代替案を開発し、実証して、世界により良い道があることを示していかなければならない。それが非暴力平和隊のスリランカでやろうとしていることなのです。有難うございました。(完)

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『フィリピンでの歴史的和平協定――なぜ今回は異なるのか?』

TRANSCEND Media Service掲載:ティム・ウォリス(NP事務局長)

 今日では平和協定は価値のないものとなっている。常時世界中の25カ所で戦争が行われており、2週間ごとに平和協定が締結されている。

 公式記録によると、世界中の平和協定のうち半分が数年で破棄されている。イスラエルとパレスチナの歴史的平和協定―どのくらい続いたか思い出してください!スリランカでは政府とタミール・タイガーがノルウェー仲介のもと包括的平和協定を結んで数年後には政府軍がタミール・タイガー軍をせん滅したことを!

 悲しいことですが、多くの平和協定が単なる紙切れに終わりました。

 そして、今回の新しい平和協定です。

 フィリピンの南部の島ミンダナオで2008年平和協定が失敗し休戦破棄されて全島に戦火が広がったとき、多くの大量殺戮が行われ60万人の難民が発生しました。しかし、この時、それまでになかった新たな要素がありました。NPと呼ばれるほとんど無名のグループの非武装の国際市民社会監視員のプレゼンスです。

 これらのNP監視員たちは、この島で静かに活動をしてきました;紛争の両当事者との関係構築、中立で独立した公平な立場で紛争当事者が当面する問題解決の支援を通して信頼を獲得しました。例えば、どのようにすれば弱腰とか譲歩と見られずに不必要な流血を避けられるか、いかに戦場に巻き込まれた市民の安全を確保するとか、いかにして戦闘継続中も敵とのコンタクトを維持し誤解を避けるようにするか、いかにして譲歩と見せないで休戦の探りを入れるとか・・・。

 NPは双方がより洗練され、市民をより尊敬するように手助けした結果、休戦が最終的に合意された時、双方から休戦のもとでのそれぞれの約束と義務の履行を実現するための“休戦メカニズム”でNPが公式な役割を担ってくれるように要請を受けました。休戦監視のための仲介者を指名することはよくあることですが、このような役割は普通はUNや他国(国々)に要請されるものです。このような役割が市民社会の非武装市民からなる一つの非政府組織(NGO)=NPに要請されたことはかってありませんでした。これは歴史的なことですし、今回フィリピンで調印された平和協定が歴史的と言える理由です。

 この平和協定に関しては他に多くの新機軸があり、そのいずれもが注目に値します。なぜならば、これらは21世紀において平和を創り出す新たな方法だからです。

 NGOを休戦監視の支援に用いると共に、紛争の当事者双方はクアランプールでの交渉の支援にも‘国際コンタクトグループ’の一員としてNGOsを用いることになりました。平和プロセスには前例のないことです。紛争の現地でも地域のNGOsが休戦監視と市民の保護の支援にあたる公式の役割を与えられました。関係各国の役割も重要です。しかし、本当に画期的な新機軸は非武装の国際市民平和維持活動家を紛争地での休戦監視に充てたということです。何故そうしたのでしょか?

 平和協定や休戦が銃やタンクやヘリコプターで完全武装された兵隊、国連などによって監視されている時に、戦闘員や最も被害を受けている市民はどう受け止めているでしょうか?‘平和’のためであれ、兵士を派遣することは、戦争の問題であれ平和の問題であれ、軍事力、暴力や力が問題を解決するという古びた想定を単に強化するだけです。

 多くの平和協定が長続きしないのは不思議ではありません!多くの休戦協定が破られるのは当然のことなのです!二つの軍隊の戦いによって引き起こされた問題の解決のためにただ単に更なる兵員を送るだけでは、戦争のメンタリティに挑戦し人びとが問題を処理する方法を変えてみようという試みさへ始まらないでしょう?

 NPはこのようなまったく混乱した事態に新たな次元を投入し、すべてを逆にするのです。NPは主張します;紛争地ではあなたは兵士であるよりも市民でいる方が実際により安全であると。実際、あなたは軍人としてよりも市民として無垢の市民をよりよく保護することができます。実際、あなたは軍隊としてではなく非武装の市民として介入することにより暴力を減少―暴力のサイクルを断ち切って―させることができます。

 これは画期的な出来事ですが、フィリピンでは過去2年間ほとんどの場合気付かれないで行われ、しかも大きな成果を上げたのです。これによって、時間のテストに耐えて戦火に苛まれた島民に彼らが最も望んでおりまた受け取るにふさわしいもの―即ち真の恒久的平和―を与える実現可能性の高い平和協定が可能となったのです。

 そして、紛争現場で現に平和が保たれている時に初めて交渉中の平和が実現可能となるということが、調印されたばかりの平和協定にとって極めて重要なことなのです。ほとんどの休戦協定は合意されたその日から破られ、日ごとにそれが続きます。なぜならば双方が相手を試し続け、交渉を有利にするために兵力を強化し、もし望み通りにならなければ、それを得るために何時でも戦闘再開する用意をしているからです。多くの伝統的な休戦監視団はこのことを知っていますし、彼らの仕事は平和交渉に戦闘のチャンスを与えるために好戦者たちをたんに食い止めているだけだということを知っています―彼らは決して問題や衝突や事件や違反などへの対応はしないのです。これが現在までのやり方なのです。

 NPはミンダナオでの休戦をただ‘監視してきた’だけではありません。NPチームは紛争地で毎日文字通り‘平和維持活動’を実践してきました:現場での具体的な問題への取り組み、双方を譲歩させ、強制退去や日常生活の中断を防止し、人々が真の平和に慣れ親しみ、平和を期待するよう励ましてきました!これらのことが今回の新たな平和協定での新しいダイナミクスとなっています。

 ミンダナオの住民は2年間の平和を得ており、彼らはこれ以下のことは受け入れないでしょう。戦争勃発の際に被害を受けた一般の市民は平和を要求し、今や、好戦家は彼らに平和を与えざるを得ません。

 好戦家たちはどうなるでしょうか?多分彼らも非武装の市民平和維持活動家たちの‘洗練された’プレゼンスにいくらかは影響されているでしょう。紛争期間中、NPは尊敬と尊厳をもって好戦家たちに対応してきました。好戦家たちも戦闘に巻き込まれた市民を尊厳と尊敬をもって対応することが彼らの利益にかなっていることを学んだでしょう。そして、休戦や国際人権法規や戦争法規の遵守することが正しいことを学んだことでしょう。

 NPは兵士を平和主義者に転向させたことはないし、そうした野心は持っていませんが、国のため或いは自決のためであれ大義のために戦う兵士たちが、いかに闘いが行われているか、特に女性や子供のような一般市民がどのように取り扱われているかに対しても責任を持っていることを忘れないよう注意を喚起してきました。これらの一般市民が尊厳と尊敬を持って取り扱われ、権利と生活が虐待や戦争違反から保護され続ければ、これは非常に重要な平和協定であり戦争の歴史の転換点となるものであります。

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『戦争の廃絶を実現可能な目標とするために』
Making the Abolition of War a Realistic Goal

Gene Sharp ジーン・シャープ著/岡本珠代・訳
【この日本語訳はThe Albert Einstein Institutionの承認を得ています】
発行:非暴力平和隊・日本(NPJ)

 近代戦争はきわめて破壊的である、とだれもが認めている。それでもなお、大半の政府が、国民の支持のもとに、軍事力の増強に最大限の努力を払い続けている。戦争を廃絶し、世界平和を実現するために、今まで無数の提案や運動が試みられてはきたが、だれの目にも明らかなように、そのどれひとつとして成功していない。実に、戦争の廃絶と平和の実現という目標の達成は、今日では数十年前に比べて、重要な点でいっそう困難となった観がある。  もちろん、我われが解決できなかった重大な政治的課題はこの戦争の問題だけではない。ほかにも、独裁、大量虐殺、抑圧的体制、人民の無力、等の問題がある。これらの問題も、戦争の問題の解決策を探るにあたって、考慮に入れる必要がある。

 戦争が続行し、戦争準備が着々と進められているといった状況にたいしては、大方の人が、あきらめるか絶望するか無力感に陥ってしまう。「戦争は避けられない」と考えて、これを「人間の本性」や、お好みの「悪の力」のせいにする人がいる。他方では、戦争の廃絶を求めて、方角も確かでないのに、見果てぬ夢を追い続け、昔ながらの道をたどる人あり、目標めざして息をきらせる人あり、近道がないかと探す人あり、かえってアブハチとらずになりかねないのに、捨てばちの行動に走る人あり、実に様々である。  しかし、こういう対応のしかたはすべて不十分である。もっと創造的なやり方が可能なのだ。実際、それを練り上げる努力をするのが、我われの責任なのである。そうした対応策が、確固とした基盤に立って、現実に即して練り上げられ、実践されるならば、我われに新たな希望を与えてくれるのではないだろうか。  戦争の問題にたいする新しい対応策が、確固とした基盤を得るためには、まず、平和のために働らく人びとが滅多に考えない、次のような手ごわい事実の数々を考慮しておく必要がある。

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  •  ある種の紛争は、社会の内部にも、社会と社会の間にも、常に存在し、ある種の力の行使を必要とする。
  •  「人間の本性」を変える必要はなく、変えることもできない。
  •  国民も政府も、平和のために、自由や正義を犠牲にしようとはしない。
  •  平和主義への集団転向は起こりえない。
  •  軍事技術と軍事的想定が相互関係にある時、軍事技術のスパイラルが切断されることはない。
  •  残忍な独裁制や抑圧体制がなくなることはない。ますます残忍になり、ますます拡大していく可能性もある。
  •  たとえ資本主義が廃止になっても、その結果戦争がなくなるわけではない。
  •  交渉は、戦闘し制裁を加える能力の代役にはなれない。
  •  一方的「武装解除」(ディスアーマメント、自衛力の放棄)は、戦争に代わってとるべき第二の道ではなく、実現可能でもない。
  •  大規模な多国間軍縮もほとんど実現不可能である。
  •  国の独立が戦争の原因ではない。
  •  世界政府は、実現できない。万一、世界政府ができても、いずれは世界内戦争を起こし、抑圧的となり、あるいは不正義を強いたり持続させるために利用される結果となる可能性がある。
     戦争の問題の解決策を探るにあたっては、ユートピア的幻想に基盤を求めてはならず、国際紛争の立て役者たちの政治的もくろみをうのみにしてかかることもやめねばならない。

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無気力・無抵抗よりは戦争を

 問題の本質をよく理解しないまま解決策を探り練り上げるのはきわめて困難である。戦争の問題にしても、我われにはその本質がよくわかっているとはいえない。この問題を扱う前に、今まで提起されてきた提案や学説を一切合財、棚上げにする必要がある。だが、全く新たな方法を開発するのもむずかしい。一旦気に入ったやり方をおいそれと捨てたくないのは人情であり、新規の方法を手がけるには相当の知的準備がいる。
 戦争にしても、威嚇や開戦が目的で行なわれる軍備増強にしても、その原因や結果はとても複雑で錯綜している。記述された歴史をみても、戦争や戦争準備が大きく変わってきていることは明白である。しかし、複雑さと歴史的変遷がどうあれ、直接に戦争の現象を見つめ直すと、次第に、戦争の本質や持続の理由が見えてくる。
 戦争や軍事力は様々の機能を果たしてきたが、その一つが他社会の人民だけでなく自社会の成員をも攻撃し抑圧する機能である。しかし、戦争や軍事力のこうした卑劣な行使にのみ注目しないで、戦争や軍事力がそれよりましな目的(や、人民の支持を得るために本音は隠して掲げられた建て前上の目的)のために、行使されてきたことを忘れないようにしよう。
 国内の紛争や国際間の大きな紛争は、きわめて重要な大問題をめぐって起こる。世界は、政治的にいつも危険をはらんでいる。独裁制はあとを断たず、長期化して、勢力拡張も再三にわたる。他国の攻撃を受ける国もでてくる。いろいろな形態の抑圧体制が生まれる。軍や国政の少数者集団が、合法政府を倒して新しい抑圧体制をつくる。大量虐殺が発生する。実に多くの国民が、国内や国外の権力者たちに搾取され抑圧統治される。
 多種多様な紛争状態に対処するためには、効果的な闘争手段が必要となってくる。こうした闘争には、敵対者を抑えこみ打破するために、暴力を用いる対抗手段が使われてきた。こうして、戦争を含む暴力闘争が、人道主義的社会と目標を敵から守り推進することを目的として、再三にわたり行なわれてきたのである。
 暴力紛争は、闘争の一手段として、究極的制裁として、用いられ、生活様式・信仰・独立・社会制度を、抑圧者や攻撃者から守り推進するために、危急存亡の時に役立ってきたのである。こうした暴力がたとえどんなに不都合であろうとも、大切なものの危機に直面した時に、これがなすすべなく屈服する代わりにとれる唯一の手段だと多くの国民は信じたのである。
 外国から侵略を受けたばあいは、防衛戦で応ずるというのが通例となった。こうして、戦争は、危機に際して国民を無力感から解放し、生きる意味や目標や社会体制を守るために必要な闘争を遂行したいばあいに、その強力な手段としての働きを果たしたのである。人類の大多数は、こうした危機に直面したら戦争こそもっとも有効適切な手段であると、昔も今も信じてやまない。
 戦争は残忍で、人倫にもとるものであるにせよ、また戦争がもたらす不利益や結果がどんなにひどかろうと、戦争は国際的交渉で主張を通し、攻撃を抑止する際の最後の切り札としても使われてきた。また、外国の攻撃で人生の信条や自由がおびやかされる恐れのあるとき、公然と抵抗する際の手段として、一種の究極的制裁と闘争の手段の役割を果たしてきた。政府や民間人が戦争と軍備を正当化する時に挙げる論拠は、こうした点なのである。
 ミサイルと水爆の時代となったいま、これらの新兵器が真の防衛に役立つどころか、皆殺しになりかねないのを承知の上でなお、人々は戦争の有効性を信じてやまない。新兵器が従来の戦争で使われたものの延長ぐらいにしか考えていないからである。この兵器は理性的な闘争には使用不可能だと知ると今度は、それが存在するだけで紛争が戦争に発展するのを抑え、結果的に新兵器が生活の破壊を防いでくれると信ずるようになる。こうなると兵器が国際的危機に直面する人びとの無力感を予防していることになる。
 こうした闘争手段が必要とされる限り、また、戦争によらずに紛争を解決する道が発見されない限り、戦争はけっして廃絶されることはない。人も社会も、無防備であることを選ばないのである。

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戦争に代わる防衛策はあるか

 戦争は他国への脅しや攻撃の目的で行なわれ、相手国も抑止や防衛に必要な軍備をもたざるをえないから、戦争の悪循環が断ち切られることはありえない。ただし、戦争に代わる有効な非軍事的防衛手段が存在することに、政府も国民も気付くようになれば話は別である。
 従来の平和への提言や運動は、戦争の代わりに実行できる確実な防衛政策を提起できなかった。それゆえ、戦争問題の解決策として、いくら交渉や妥協や調停、国際会議や超国家的連合組織が提起されようと、反戦抵抗運動が起こされようと、すべてうまくいかないことは最初から予想できた。
 その一方、強大な防衛力を信奉する者たちは、軍事的手段だけを考えて、非軍事的手段の可能性を考慮さえしない頑固な態度をとりつづけており、その結果が、現代の危機的状況を招き代替政策が未開発のまま捨ておかれているのである。
 戦争や暴力闘争に依存するやり方を思い切ってやめるか、削減していきたいと望むなら、戦争に代わる非暴力的手段、すなわち「暴力なき戦争」を採用する必要がある。この新手の手段によって、軍事的手段に劣らず、武力攻撃から社会や制度や人道主義原理や自由を効果的に守りとおせるのである。
 この新しい防衛政策は、次のようなものでなければならない。第一に、公然の紛争を起こさずに、問題を解決に導びき(解決を容易に運ばせ、誤解を解消し、有効な防衛力そのものを用いて侵略を抑止する等)事態に備えておけるもの、第二に、攻撃に対する公然の防衛戦に有効に使用できるもの(このばあいの「防衛」とは、文字通り、保護、危険の除去、保存、等の謂である。防衛は、必らずしも軍事的手段と結びつく必要はなく、非軍事的闘争によっても実現されてきた)。

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新防衛政策の原動力

 1939年に、アルバート・アインシュタインは、時のローズヴェルト米国大統領にあてた有名な書簡の中で、在来兵器とは全く異質の新兵器が核分裂をもとに開発できるという見解を表明した。原子核自体は人の目に見えないものであるし、その上、原子力兵器の名に値するものは当時何一つ原型となるものさえも作られていなかったのであるが、とにかく、マンハッタン計画は発足し、人的・物的資源の整った新兵器体制が誕生したのである。
 今日では、軍事手段を必要としない新しいタイプの防衛体制を創り上げることができるという確証がある。これは、1939年に取り沙汰された原子爆弾製造の可能性より確かなものである。この新体制の場合、政策の原型がすでに歴史的に実在しているのが強みである。たとえば、暴君に対して行なう非暴力を主体とした突発的な革命とか、クーデターや侵略に対する防衛闘争などが範例となる。
 我々の強みはさらに、政治権力の本質を洞察している点である。この洞察が政治上もつ重要性は、兵器製造技術における原子物理の理論にも匹敵する。いかに強固な統治者も政府も、堅牢不落ではなく、永遠不変でもなく、実際は社会内のある種の権力源に依存している。権力の源泉とは、例えば、統治権の承認行為、経済的・人的資源、軍事力、情報・知識・技能、行政機構、警察・刑務所・裁判所、等々である。これらが権力の源泉となるのは、統治者が被統治者から受けとることのできる協力や服従や援助の度合に応じてなのである。被統治者の中には、一般大衆も、統治者が金で傭う「助太刀」や要員も、入っている。こうした依存関係が存在することから、被統治者には、必要な協力や服従を中止したり、減らしたりする手を使って、事情によっては、権力の源泉を制限あるいは断絶できる力が与えられていることになる。
 もし権力の承認と服従と援助が中止され、統治者が下す罰を物ともせず、その状態が持続されたとすれば政権の終焉は目に見えている。このように、およそ統治者は、その地位と政治権力を、被統治者の服従と従順と協力に依存しているのである。これは国内だけでなく、外国からの侵略と占領にもあてはまる。権力は暴力行為に由来し、勝利は暴力をより強く振るえる側に渡る、という説はまちがいなのである。

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独裁制の泣き所をつく

 暴力の代わりに、公然と拒絶し抵抗する意思の存在がきわめて重要となる。ヒットラーは、「占領下の人民を統治する」には心理操作をするに限ると信じていた。
 「力づくで抑えるだけではだめだ。武力は大事だが、心理作戦も武力に劣らない。動物の調教師が動物の心理を知り尽くすのと同じなのだ。彼らには、我われが勝利者だということを納得させる必要がある。」しかし、一般市民は、納得させられるのを拒絶することができる。
 見かけだけの「権力者」を神のごとき全能者とみなすことに納得しない人民が、内外の統治者や侵略者、抑圧的な体制、経済的支配者に歯向かい抵抗した歴史は連綿として続いている。抗議や非協力や分裂・干渉を武器とするこの闘争は、大方の予想に反して、世界の至る所で大きな歴史的役割を演じてきた。政治的暴力が並行して、あるいはのちに起こったために、そちらの方が有名になった事件でも、同様のことがいえるのである。
 こうした素朴な形態の非暴力闘争は、外国からの侵略や国内の暴虐に対する防衛の中心的な手段として(多くの場合、準備や訓練や計画などなしに突発的に)、いろいろな国で実行に移された。数例を挙げてみよう。1920年のドイツ・ワイマール共和国に対するカップ暴動(プッチ)へのストライキと政治的非協力、1923年のフランス・ベルギーによるルール占領に対するドイツ政府主導の非協力、1940-45年の大規模ストライキを含むオランダ人反ナチ・レジスタンス、1944年のコペンハーゲン・ゼネストを含めた1940-45年にわたるドイツの占領に対するデンマーク人のレジスタンス、1940-45年のノルウェーにおけるクイスリング政権とナチの占領に対するレジスタンス、そして、1968-69年のソ連による侵略と占領に対するチェコスロバキアのレジスタンス。
 チェコスロバキア人の防衛闘争は、その性格も成果も大方忘れられ、言及される場合も曲解を受けている。このレジスタンスは、最終的には失敗したが、ソ連の完全な支配を8月から4月まで実に8ヵ月もはねつけていたもので、軍事的手段を用いては全く不可能だったであろう。伝えられる所によると、このレジスタンス活動によってソ連人部隊内の士気が大いに乱れたため、最初の部隊は数日のうちに国外に撤退させられ、しかも事態が伝わるのを恐れて、西側ソ連国内ではなくシベリアに送られてしまったとのことである。この時も、準備や訓練は一切なく、即席の計画案さえなしに抵抗運動が行われたのである。最終的には敗北という(チェコ当局者による降伏であってレジスタンスの失敗ではない)結果に終わったが、この事件によって、軍事的手段よりも強力な潜在力の存在が明らかになった。
 上に挙げた事例に加えて、国内的な抑圧や独裁体制に対して起こされたレジスタンスや革命もよき範例となる。1980-81年のポーランド労働者による組合の独立と民主化を求める運動、1944年のエルサルヴァドルとグァテマラにおける軍事独裁体制に対する革命、1978-79年のシャーに対するイラン革命、1905-06年と1917年2月の帝政ロシアにおける革命、1953年の東独蜂起、1956年と1970-71年と1976年のポーランドにおける諸運動、1956-57年のハンガリー革命、1963年の南ベトナムにおけるゴ・ジン・ジェム政権に対する仏教徒の運動、1953年のソ連国内のボルクタ等の収容所におけるストライキ、等々。
 このタイプの抵抗運動や防衛闘争が、独裁制に対して有効である理由は、どんなひどい独裁権力も被統治民とその社会に依存せざるをえないからである。大方の思いこみに反して、独裁制は我われが信じこまされているほど強くも全能でもなく、さまざまな泣き所を抱えており、そうした弱点が無能な行政と支配の不徹底さを生み、ついには支配の寿命を縮めるに至る。独裁制の泣き所をつきとめることは可能であり、一枚岩に生じた裂け目に集中して抵抗運動をかけることができる。非暴力の抵抗運動の方が、暴力を使う闘争よりはるかにその任務に適しているのである。

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市民を基盤とする防衛

 外国からの侵略や国内の独裁・圧制に対して起こされる上に述べたような即席の抵抗運動が、このままで軍事手段にとって代わる防衛政策として、戦争の代用に使えるわけではない。しかし、こうした抵抗運動があるべき防衛手段の原型となるのは確かである。これを研究・分析して、慎重な評価・改良・準備・計画・訓練を加えて、新しい防衛政策の基盤とすることができる。兵器や軍事力ではなく市民や社会的機関など社会的勢力に基盤を置いた政策である。軍事手段を使う防衛にとって代わる政策は可能なのである。
 この武力を使わない抑止と防衛の新政策は、「市民を基盤とする防衛」(シヴィリアン・ベイスト・ディフェンス)と呼ばれる(以下、市民防衛と略称する)。よく準備の整った非暴力の市民闘争を活用するこの防衛政策は、社会の自由・主権・憲法を国内外の侵略や侵害から守り、攻撃を抑止・打破するのを目的としている。侵略や攻撃をする者の意図を変えさせるだけでなく、市民や諸機関が大挙して選択的に実行する非暴力的非協力と反抗行動でもって、占領支配や統制を不能にする。狙いは、民衆が侵略者のいいなりになるのを防ぎ、敵の意図をくじくことである。原動力となる真の能力が正しく認識できるなら、その時はじめて国内・外の侵害や侵略を抑止できるだろう。
 非暴力手段を使って相手に圧力を加え、威圧することも可能である。市民闘争は、相手を転向させようとするよりは、分裂させ麻痺させ、相手が必要とする協力を拒んで相手を威圧し、さらに社会秩序の正常な運営をくつがえすなどして闘われてきた。これが、市民防衛戦略の基本である。
 イデオロギーの教化や洗脳を狙いとする攻撃に対しては、学校や新聞・ラジオ・テレビや教会、各段階の行政機関や一般民衆の行なう非協力と反抗行動が起こされ、民主主義原理が再確認されるだろう。
 経済的搾取を狙いとする攻撃に対しては、経済レジスタンス(経済専門家や経営者や交通機関の労働者や役員によるボイコットやストライキや非協力)でもって対応し、相手に経済的利益を与えないようにする。
 クーデターや権力の奪取劇に対しては、公務員、官庁、行政府、警察、公共機関や一般民衆がこぞって 非協力行動で応じ、相手の合法性を否定し、政府や社会に及ぼす相手方の支配力の強化を阻止する。

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さまざまな防衛責任

 市民や公共機関はともに、さし迫った問題に応じた、特定の防衛課題を担う責任がある。
 たとえば、警察は侵略者や攻撃者に対して、抵抗運動中の愛国者の捜索や検挙を拒否する。新聞記者や編集者は、検閲を拒み、非合法に新聞を発行する(ロシアの1905年革命とナチ占領下の数ヵ国で起こった)。自由ラジオ番組を秘密の送信装置で続ける(1968年のチェコスロヴァキアの事例)。
 聖職者は、侵略者への協力を拒否する義務を説く(ナチ占領下のオランダの事例)。  政治家や公務員や裁判官は敵の不法な命令を無視し拒否して、政府や裁判所の正常な機能が侵されないようにする(1920年のドイツ・カップ暴動(プッチ)に対して起こされたレジスタンス)。
 裁判官は、侵略者とその一党が不法な憲法違反者であると宣告し、侵略以前の法や憲法に則って機能し続け、たとえ裁判所が閉鎖に追いこまれようと、侵略者にモラルサポートを与えることを拒む。
 教師は、学校にプロバガンダを持ちこむのを拒絶する(ナチ占領のノルウェーの事例)。学校を統制しようとする企てに対しては、カリキュラムの変更やプロパガンダ持ちこみへの拒否で応じ、緊急事態を生徒に説明し、出来るだけ長く平常どおりの教育を続け、必要なら、学校を閉鎖して児童の家庭で個別授業を続けるなどして対処する。
 労働者や経営者は、1923年にルール地方で起こったように、選択的ストライキ、遅延行動、妨害行動等によって、国の搾取を阻止する。
 専門職集団や労働組合への統制に対しては、侵略以前の規約や手続きを堅持して、侵略者の手になる新組織の承認を拒み、侵略に好意的な新団体の会合に出席拒否、会費の支払い拒否、破壊的ストライキ、経営者側の反抗や妨害、経済・政治ボイコット等をもって対応する。
 上に挙げたのは、多種多様な防衛任務のほんの数例に過ぎない。市民防衛は、物理的自由(リバティ)の代価が永久的監視であるという原理に立つのみでなく、独立と精神的自由(フリーダム)の防衛は市民各自の担うべき責任であるとの原理に立って機能する。
 これらの防衛策は、軍事力を手段とする防衛体制に比べて、より全体的な防衛体制といえる。なぜなら、これには全人民と全機構がこぞって防衛闘争に参加するからである。しかし、危機にのぞんで頼れるためには、この参加は自発的である必要があり、また非暴力的手段に頼るのであるから、市民防衛は本質的に民主的である。
 武力抗争の場合と同じく、非暴力の市民防衛は敵の暴力行動に対しても実行に移される。武力衝突と同様に、死傷者が出ることも予想される。その場合でも、彼らは防衛者の意気を高める(抵抗活動を強化する)とか、敵の戦力に打撃を加える(敵の支持勢力を離間させる)などのために活用される。死傷者の発生に意気沮喪するとか、投降するなどの理由がないのは、武力衝突の時と同様である。実際は、市民闘争の死傷者の数は武力衝突の時よりずっと少ないようである。

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その他の市民防衛作戦

 市民防衛は、侵略者や権力の簒奪者に対する攻撃能力をももっているが、これをアメリカ合衆国陸軍のある将官は「CBDシヴィリアン・ベイスト・ディフェンス(市民を基盤とする防衛)の剣」と名付けた。非暴力闘争の基本的原動力(とくに「政治的ジュウジツ(柔術)」の方法)や慎重な作業が向けられる目標は、攻撃者の軍隊や行政担当者たちのもくろみと忠誠心と服従をくつがえすことである。これが成功すれば、彼らは信頼のおけない非能率な連中となり、抑圧行為にも残忍さが減り、時には、上官への大規模な反乱も起こりうる。極端な場合、これが抑圧と圧制の機構の解体にまで発展することもあるだろう。
 同じような転覆作戦が、敵を支持する国々や敵国民に向けて、敵陣営の内部告発や分裂や抗議をひき起こす目的で実行に移される。これも成功すれば重要な作戦だが、主たる作戦領域はあくまで国内の前線である。
 場合によっては、侵略に対して国際的反対運動や市民防衛者への国際的支援活動が起こされることがある。時として、これは侵略者や権力纂奪者に対する経済的・政治的制裁という形をとる。こうした制裁も意義がある(アラブ石油の輸入禁止措置の場合)が、市民防衛者の頼みの綱は、あくまで自分たち自身の防衛行動なのである。
 この三つの防衛領域(敵の攻撃目的を拒ける、敵陣営内に士気の沮喪と動揺をひき起こす、防衛者への支援と攻撃者への制裁を国際的に喚起する、の三領域)のうち、直接市民の手になる攻撃者の目標阻止行動が最も重要である。

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核兵器

 核兵器との関連で市民防衛を考える場合、これが核兵器に対して適切な政策であるか、あるいは、どんな制約があるかといったことを深く考慮する必要がある。この分野にはいまだに適切な検討が加えられたことがない。市民防衛は在来兵器を使う防衛にとって代わるには適切だが、核戦争には不適当かもしれない。その場合には、他の手段、たとえば軍備管理条約その他の国際管理、一方的・自主的核兵器削減、核兵器の完全な一方的撤去を、核兵器が安全保障になるよりは危険のもとという認識に立って、実施して対処する。
 一方、市民防衛は核兵器に対して、間接的に対応することができる。たとえば、市民防衛政策をもつ核兵器非保有国は、他の核保有国に照準を合わせた核ロケットが配備されている核保有国よりも、攻撃目標となる恐れがはるかに少ない。
 別の状況を考えると、ソ連の西進電撃戦に際して使用予定のいわゆる「戦術的」核兵器の大量配備は、通常兵器によっては西ヨーロッパを防衛できないNATO軍の無力さを前提としている。西ヨーロッパの市民防衛政策の準備が完了して、実行に移されれば、攻撃を受けた都市の自律性を保持し、ソ連の攻撃意図を拒絶し、ソ連軍隊の士気と信頼性をくつがえす(その実証例あり)ことが可能な大規模かつ持続的な防衛力をもっているので、通常の武力より強力な抑止と防衛の政策たりうるはずである。だから、西ヨーロッパへのソ連の攻撃を抑止し防衛するのに核兵器に頼る必要はない。こういう問題についての慎重な研究が急がれる。

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脱軍備(トランス・アーマメント)

 強力な防衛政策として完成した市民防衛が採用されるのは、これが効果を発揮できると判断された時だけであるから、まず最初に一国ないし二、三国だけでもこの政策を採用してみる。同じ政策の採用を宣言した国々と盟約を結ばなくとも、また大多数の国が軍備をやめないままでもかまわない。この政策の有効性と有益性が納得できれば、他国もやがて追随し、脱軍備(トランス・アーム)をはかろうとするだろう。
 最初に市民防衛を採用する国は、防衛には自助を望みながら、軍事力によってはそれを達成できない国々であろう。この政策については、とくにスウェーデンとオランダで、政府や民間の研究や討議が活発に進められているが、戦略的必要性という点では明らかに、オーストリアとフィンランドに最適の政策である。現時点では、西ヨーロッパの弱小国が従来の防衛政策に市民防衛を加え、やがて、新政策への軍備の転換を実現する最初の国々になるのではないかと思われる。
 正確な予測を下すのはきわめて困難だが、1990年までには、西ヨーロッパの一ヵ国ないし数ヵ国が(同盟国と連携するか独自に)軍事力中心の政策に市民防衛計画を加え、また2005年までには、最初の脱軍備が行なわれ新政策の採用が実現する可能性は大きい。  新政策の採用は必らず強固な抵抗に会うと予想されるし、軍事大国が短期間のうちに脱軍備を実現するとは考えられず、また不可能でもあろう。しかし、軍事大国でも、市民防衛が特定の目的に発揮できる有効性と有益性について納得させられれば、これを防衛政策の一環に加えることになるだろう。
 この政策を採用しはじめる国は、必らず市民防衛計画を従来の軍事力中心の防衛政策に追加させるところからはじめる。準備と訓練が着々と進むにつれて、また攻撃への抑止力と防衛力ヘの信頼度が増加するにつれて、市民防衛の占める部分が拡大されるようになる。そうすると、軍事力に依存する部分の必要度が次第に低下して、軍事力が市民防衛の完全な有効性の発揮を損うとさえ思われるようになる。軍事力に依存する部分は漸減し、ついには廃棄へと向うことも予想される。
 独裁体制や不安定政権は、国内外に抱えたもくろみを達成するために、軍事力に懸命にしがみつくであろう。それでも、もし外国の武力攻撃の恐れが除かれ(国内の緊張が緩和され)、国民から自由化・民主化を求める非暴力の圧力があれば、独裁制も動揺をきたすであろう。

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市民防衛の成果

 市民防衛政策が練り上げられて立派な政策となったあかつきには、いくつかのきわめて重要な成果をもたらすだろう。ある場合には、軍事力中心であればほぼ同一である一国の防衛力と攻撃力の二者を分離させるから、それによって国際緊張が緩和されるであろう。新政策は、中小国に自力本願の防衛力を得させるであろう。
 市民防衛には資源や人員の必要や出費がないわけではないが、この型の防衛は、国内資源や工業生産力や、財源やエネルギー源の消費にあたって、軍事的防衛ほど浪費しない。  市民防衛は、国の外交政策や国連の活動への政策を軍事的統制から解放する。一方、市民防衛は、外交政策や国際政策の成長を促して、世界的大問題の解決に導き、人類が必要とするものをより適切に充足し、この非軍事的政策を採用した国が理解と友好を得られるよう助ける。
 市民防衛がもたらすメリットを考慮し計画し準備し訓練していくうちに、次のような好ましい事態が起こることが予測できる。この準備が刺激となって、防衛に値する社会の原理や制度とは何であるかを考える気運が生まれ、社会や政体をより正しい自由なものにするべく改良を加え、防衛闘争の時だけでなく平和時にも社会の機能に参加する人の数が増える、という事態である。
 しかし、市民防衛が内外の侵略や侵害に対して抑止と防衛に役立つまでに成長してもなお、権力者や政府が強力な軍事力を固守して市民防衛を拒否することもあろう。その場合でも、権力者や政府は、本当のもくろみが立派でないのに国を守ることを口実にして軍事力増強を「正当化」することはできまい。市民はただちに軍事力依存の真の動機が建て前とは違うのを悟って、市民独自の判断を下し独自の行動を決定するようになるのである。

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選択肢を創る

 市民防衛は、兵器技術のスパイラルを切断し、軍縮交渉や軍備管理交渉にバイパスを設ける。大多数の国は国際間や国内の危険を十分認識できれば、総力を動員して攻撃を防止し、抑止し、防衛にあたると同時に、軍事力依存を削減して、ついには廃棄へと向うであろう。
 この時はじめて、攻撃の抑止と防衛にあたって、軍事力に頼るか、市民防衛政策をとるか、の二者択一の選択を危機に先んじて行なうことが可能となる。大多数の政府や国民は、攻撃の抑止と攻撃からの防衛にあたり、二つないし二つ以上の政策から一つを選ぶという選択もせずに、きわめてまれな例外は別として、戦争にひたすら依存する。彼らには、実は、選択肢がないのである。
 選択肢の開発が行われるにつれ、その後の状況は市民防衛の選択が防衛任務をどの位満たせるか、その度合と、またその妥当性をどのように認識するかにかなりの程度かかっている。だから、予備的基礎研究、問題解決研究、政策学、実行可能性の研究、下準備、緊急計画作成、訓練等がきわめて重要になってくる。それに劣らず重要なのが、国民の防衛意思、レジスタンス中の非国家機関の反発力、賢明な戦略を立案実行する市民防衛者の力量である。かねてから国内外の侵略者や侵害者のもくろみと彼らの弱点を、見極めておくことも重要である。
 こうして、軍備が市民防衛へと完全転換する事例がいくつか起こっても、すぐそのあとに続いて他の多数の国が大挙して脱軍備を急ぐということにはなりそうもない。とくに独自の軍備と同盟国によって安全が保障されていると信じている国の場合はそうだ。しかし、市民防衛が危機にあって試練を受け、見事に内外の侵略や侵害を阻止して、攻撃から社会を首尾よく守れた場合、その成果は深く強いものとなろう。
 市民防衛の有効性が実証されれば、脱軍備への道を歩む国の数が増加することが考えられる。しかしたとえ、軍事力を完全に放棄しない国があっても、侵略が得になるどころか、敗退という事態も起こりうることを納得させれば、彼らの害の及ぼし方を抑えることもできるだろう。一方、軍備に固執しない国では、軍事的防衛に代わる政策を採用して、国策の一手段としての戦争を放棄する方向に、漸次進むであろう。こうして、次第に軍事力の撤廃と、国際関係の重大な要因である戦争の廃絶へと、導かれていくであろう。(岡本珠代訳) 

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【参考文献】
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Gene Sharp, Making Europe Unconquerable: The Potential of Civilian-based Deterrence and Defense. 1986
Gene Sharp, Civilian-Based Defense: A Post-Military Weapons System, with Bruce Jenkins. 1990
Gene Sharp, From Dictatorship to Democracy. 1994
Gene Sharp, Waging Nonviolent Struggle: 20th Century Practice and 21st Century Potential with Joshua Paulson. 2005

【筆者紹介】Gene Sharp
 ジーン・シャープ氏は、1928年オハイオ州生まれ。1972年以来マサチューセッツ大学ダートマス校で政治学教授をつとめ、現在は名誉教授。ハーバード大学国際問題研究所客員研究員もつとめた。著書に『武器なき民衆の抵抗』(小松茂夫訳・1970年)、The Politics of Nonviolent Action(1973年)、Social Power and Political Freedom (1980年8月、序文は共和党オレゴン州選出故マーク・O・ハットフィールド上院議員)等数冊があり各国語に翻訳されている。シャープ教授の非暴力行動と市民防衛の研究は、崩壊前のソ連を仮想敵ととらえている点多少気になるが、現実的な施策の提案などが各方面の注目を集めた。また、2009年と2012年にはノーベル平和賞候補者に指名された。
 本稿は、ニューヨークの世界秩序研究所が募集した1979年度ウォラック賞の最優秀論文に選ばれたシャープ教授の“Making the Abolition of War a Realistic Goal”を訳出したものである。
 戦略的非暴力行動の研究と実践のためにシャープ教授が1983年に設立したThe Albert Einstein Institution(アルバート・アインシュタイン研究所)のウェブサイトは次のとおり。http://www.aeinstein.org/organizationsa4f8.html (訳者)

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『積極的平和主義を取り戻す』

君島 東彦(きみじま あきひこ)

 安倍首相が「積極的平和主義」という言葉を自覚的に使い始めて1年が経つ。2013年9月12日、首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(安防懇)の第1回会合の冒頭挨拶の中で、安倍氏は「国際協調主義に基づく積極的平和主義」という言葉を初めて使った。その後、9月下旬、国連総会の演説の中でも、安倍氏はこの言葉を使い、急速にこの言葉が日本の安全保障政策のスローガンとして浸透していった。安防懇は、その後、急ピッチで議論をすすめ、2013年12月、国家安全保障戦略を提案した。これをうけて、12月17日の閣議決定で、国家安全保障戦略が正式に策定された。これは、1957年以来、日本の安全保障政策の基本とされてきた「国防の基本方針」に、56年ぶりに取って代わるものである(「国防の基本方針」を決定したのは岸内閣であった)。この国家安全保障戦略の基本理念が「国際協調主義に基づく積極的平和主義」である。

 「積極的平和主義」という言葉を聞くと、多くの日本人は日本国憲法の平和主義を連想する。しかし、きわめて重要なことは、国家安全保障戦略がいう「積極的平和主義」、安倍政権がいう「積極的平和主義」は、日本国憲法の平和主義とはまったく関係がないということである。国家安全保障戦略は、「我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた」と述べてはいるが、日本国憲法にはまったく言及していない。

 また他方で、積極的平和という言葉は、平和学を学んだ人にとってはなじみがある。平和学は、戦争を克服するものとしての消極的平和と、構造的暴力=社会的不正義を克服するものとしての積極的平和の両方をめざしている。安倍氏の「積極的平和主義」は平和学でいうところの積極的平和とまぎらわしい。しかし、わたしの見るところ、安倍政権は平和学でいう積極的平和の概念を知らないと思うし、仮に知っていてもそれには何の関心もないだろう。安倍政権は構造的暴力=社会的不正義の克服の問題を平和の問題とは考えていないと思う。だから、安倍流「積極的平和主義」は平和学でいう積極的平和とは違うのだという批判は有効ではない。

 それでは、安倍流「積極的平和主義」はどこから来たのか。これは日本外務省の「湾岸戦争トラウマ」に由来すると思う。湾岸戦争のとき、日本が国際社会において軍事的貢献をできなかったことが日本外務省のトラウマとなっている。冷戦後1990年代はじめから、外務省筋および保守政治家──たとえば小沢一郎氏──は、それまでの日本の政策を「一国平和主義」あるいは「消極的平和主義」と呼んで、それからの転換を主張した。この時期から「積極的平和主義」という言葉が使われてきたのである。そして、日本の「国際貢献」が主張された。1990年代はこの言葉はまだ日本国憲法前文との関連において使われていたが、安倍政権のいう「積極的平和主義」は日本国憲法との関係が完全に切断されていて、むしろ憲法9条による制約を乗り越えるためのレトリックの性格を持っている。安倍政権の「積極的平和主義」とは、国際社会において日本は相応の軍事的役割を積極的に果たしていく──したがって、国連安保理の常任理事国入りもなお追求する──ということである。日本国憲法から「積極的平和主義」が導かれたのではなくて、逆にこの「積極的平和主義」の概念に適合するように日本国憲法9条を改変することがいま追求されている。「積極的平和主義」の概念によって憲法9条を変えるのである。

 安倍政権の「積極的平和主義」の提案者は兼原信克氏であるとわたしは想像している。兼原信克氏は1981年外務省に入省し、エリートコースを歩んできた優秀な外交官である。現在、内閣官房副長官補、国家安全保障局次長である。安倍外交を支えるもっとも重要なブレーンであろう。わたしは安倍外交は兼原外交ではないかと想像している。兼原氏の著作『戦略外交原論』(日本経済新聞出版社、2011年)は興味深い本である。安倍外交はこの本にもとづいているともいえる。兼原氏は軍事力によって国家の安全、国益を守ることを重視する立場であり、わたしとは最終的に考え方・価値観が違うが、この本には鋭い洞察が数多く含まれていて、わたし自身が同意・共感する点も多い。

 兼原氏は『戦略外交原論』(2011年)の中で次のように述べている。日本国民は、アジア太平洋戦争の敗戦という日本史上未曾有の体験ゆえに、戦後、戦争・軍事の問題を忌避し、戦争に巻き込まれないことを追求した。戦後日本の平和主義は孤立主義であった。大日本帝国の対外行動が世界平和を破壊した経緯からいって、ある時期まで、日本が軍事力を抑制することは理解できる。しかし、日本の自衛隊が世界平和を脅かす状態にない現在、日本が平和を享受するだけで、平和をつくりだすことに貢献しないのは妥当でない。自衛隊は国際社会の平和的秩序創出のためにもっと貢献すべきである。兼原氏はこのような「積極的平和主義」を主張する。

 わたしは途中まで兼原氏の議論に賛成する。平和で公正な世界秩序をつくるために、日本の政府と市民は積極的に行動すべきであろう。日本列島に引きこもって自分たちの安全だけを追求するべきではない。しかし、平和で公正な世界秩序をつくる方法、手段はあくまでも非暴力的なものであるべきである。それが日本国憲法の平和主義である。そして、日本国憲法の平和主義は積極的平和主義である。たとえば、NGO「非暴力平和隊」の活動──非武装の市民による平和維持活動──はまさに積極的平和主義の実践なのである。これらの点でわたしは兼原氏と見解を異にする。われわれの課題は、軍事力のバランス、軍事力の抑止力──場合によっては軍事力の行使──によって「平和」を維持しようとする思考法・政策を変えることである。これは巨大な、超長期にわたる課題であるが、この方向性をあきらめることはできない。わたしはそれが日本国憲法の平和主義を最高法規としてもった日本国民の「人類史的役回り」であると思っている。

 平和主義という日本語は多義的で、あいまい過ぎて、いまや何も意味していない。平和主義の内容の吟味が急務である。日本国憲法9条の当初の意味は、個別的自衛権行使をも放棄する非常にラディカルな武力保持と武力行使の否定であったから、これは絶対平和主義と理解された。しかし現在の国際秩序を前提とすると、国家の政策としての絶対平和主義は極めてむずかしい。非暴力抵抗、非暴力防衛は1つの方法であるとしても、それだけですべての場合に対応しうると考えることは困難であろう。日本が武力攻撃を受けたときに必要最小限度の実力の行使は憲法9条に違反しないという日本政府解釈が出てくるのはある意味では当然といえよう。憲法9条の平和主義を実現するには、国際秩序の変革が必須の条件となる。

 ここで、英国の政治学者、マーティン・キーデル(Martin Ceadel)による平和主義概念の精緻な分析・整理が非常に参考になる。キーデルは、pacifism(パシフィズム)とpacificism(パシフィシズム)を区別する。pacifismはいますぐにすべての武力保持、武力行使を否定する立場である。これは個人の生き方としての性格が強く、良心的兵役拒否の実践となることが多い。それに対して、pacificismは、長期的な目標として、全面完全軍縮、戦争の廃絶を掲げ、それを決してあきらめないが、それはいますぐに実現可能なことではなく、それにいたる制度改革、国際秩序の変革が必須であり、暫定的には防衛のための武力保持、武力行使を容認する立場である。わたしは、さしあたり、pacifismを絶対平和主義、pacificismを漸進的平和主義と訳している。

 キーデルによれば、平和運動には絶対平和主義と漸進的平和主義の両方の潮流があり、これらは相互補完的であるが、主流は漸進的平和主義であるという。これは戦後日本においても妥当するとわたしは思う。自衛隊違憲論を主張する憲法研究者は絶対平和主義の傾向があったのに対して、憲法9条と個別的自衛権行使をギリギリ両立させようとした日本政府解釈は漸進的平和主義の枠内にあったと思う。日本国憲法の解釈、日本の安全保障政策を漸進的平和主義の枠内にとどめつづけることが現時点において重要な課題であるとわたしは考えている。漸進的平和主義の大事な点は、国際社会の制度改革である。自衛権の概念や自衛権行使に依存しない国際秩序をどのようにつくるか。また、軍事力への依存度をいかに低下させるか。日本国憲法の平和主義、日本国憲法の積極的平和主義は、われわれにこれらの努力を求めているのである。われわれは積極的平和主義を取り戻さねばならない。
(非暴力平和隊・日本ニューズレター52号・2014年9月10日 巻頭言)

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『シリアプロジェクトに対しEUから助成金』

2015年1月14日

 これまで2年に渡りプログラム調査や開発、地元活動家へのトレーニング、シリアの市民社会のリーダーや団体との信頼関係構築に努めてきましたが、このたびシリアの人々を支援するプロジェクトに対しEUから助成金を受けることが決まりました。

 シリアプロジェクトの目的は暴力から市民を守るシリア市民社会の能力強化です。NPのパートナー団体は、シリアの平和と民主主義を促進する地元NGO・Madaniと、シカゴを拠点とし暴力問題に取り組むCure Violenceです。これらのパートナー団体と共に、市民保護と暴力への対応能力プログラムへの支援をします。これらの団体と共にNPは市民団体と政治リーダーたちにトレーニングを提供します。

 またトレーニングとともに、地元団体からの支援、サポートを提供し、定期的に彼らの体験や得た教訓を確認し、お互いの関係を強化していきます。

 市民団体の積極的で強力なネットワークや、政治的、宗教的、民族的枠を超えた活動により、多元的で平和的なシリアの基礎が作られるものとNPは信じています。妥当で安全と判断すれば、国際非武装市民メンバーを派遣することも検討します。

 シリアプロジェクトは2015年4月に開始し、3年間継続する計画です。

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『2014年「台湾太陽花(ひまわり)運動」の足跡を訪ねて 』

理事 青山 正

 1月中旬に台湾を訪れました。台湾大学で教師をしている旧友との久しぶりの再会を果たすためでした。その時の見聞を元に、昨年春に台湾の学生たちが起こした「台湾ひまわり運動(革命)」について簡単に紹介します。

 運動が終わってだいぶ経った今年の2月10日になり、台湾の台北地検は、立法院議場などを昨春占拠した学生ら計118人を民衆扇動や公務執行妨害などの罪で起訴しました。

 しかしこの「台湾ひまわり運動」は非暴力の民衆運動として、世界的にも注目に値する規模と成果を獲得した、大変意義のあるものだと実感しました。今回は旧友から説明してもらった台湾の歴史と、主要な日本統治時代の建物(それらの多くが政府の庁舎となっており、そこは「ひまわり運動」の舞台となった場所でした)などを見学して見えてきたことをまとめます。

 まずは台湾と中国の間の微妙な関係について感じたことがありました。今回の台湾旅行にあたって、最初は台北にある「故宮博物院」は見学しておこうかと思ったのですが、旧友から「あそこには行かない方がいい」「なぜなら台湾のものは何もないし、見学に来ているのは中国本土からの観光客ばかりで大混雑しているから」とアドバイスを受け、結局「故宮博物院」のすぐ向かいにある「順益台湾原住民博物館」に行きましたが、なるほどと納得しました。「故宮博物院」近くの大きな駐車場は中国本土からの観光客を乗せて来た観光バスがズラッと並んでいました。その一方「原住民博物館」の方はひっそりとしていましたが、台湾の先住民族の生活や文化・歴史が良くわかるものでした。

 そして台北の街で何より驚いたというか感心したのが、台湾の人々の礼儀正しさでした。電車に乗る時も、有名屋台に並ぶ時もきちんと順番に並び、また横断歩道の信号も当然に守っていました。地下鉄の車内にある優先席は高齢者や赤ちゃん連れの母親などに若者があたりまえのようにサッと席を譲る様子に、本当に感心しました。

 そういう中で、横断歩道で信号を無視する集団は、中国本土からの団体の観光客でした。そういう姿を台湾の人々は冷ややかに眺めているようでした。しかし、台湾の企業が中国に進出するとともに、中国本土から観光客が押し寄せてくることで、台湾は経済的に中国に依存する現実があります。表面にはあまり出てこないものの、巨大な中国に対する反発も大きいと感じました。そういう微妙な中台関係が、昨年の「ひまわり運動」を支えた積極的な民衆の動きにつながっているようです。

 その「ひまわり運動」とは、昨年の3月18日に台湾の立法院(日本の国会にあたるところ)を学生たちが占拠して、それ以後585時間あまり続いた抗議運動です。占拠した立法院の議場の演台にひまわりの花が飾られたことに由来して、その後この運動は「台湾太陽花(ひまわり)運動」と呼ばれるようになりました。

 問題の発端は前年2013年6月に中国との間で締結された「両岸サービス貿易協定」にありました。中国と台湾とは国家関係としては相互に認めないため、双方の代理機関が協議を行ってきたという経緯があります。それを立法院がチェックして修正なり拒否をしない限りそのまま自動発効となるため、中国におけるような思想・表現・言論・通信への規制が台湾にも「サービス貿易」の自由の名のもとに波及するのを恐れ、それに歯止めをかけるため学生たちは立法院での協議の監督条例の整備を求めていました。しかしその後も形ばかりの公聴会が開かれるのみだったため、学生たちは「黒箱(ブラックボックス)」状態にあるとして批判してきました。それが2014年3月17日に与党の国民党により立法院での委員会の審議が打ち切りとなり、与党は本会議への送付を宣言したため、学生たちの怒りに一気に火が付き、3月18日の大規模な抗議行動と立法院の占拠という事態にまでつながりました。その後3月30日には台北で50万人の大規模集会が行われ、学生のみならず多くの市民も抗議の声を上げる盛り上がりを見せました。象徴となったひまわりの花が産地の台湾南部から何と20万本近くも寄せられたということからも、この運動の広がりがわかると思います。

 その後4月6日になり、協定を推進していた馬英九総統と対立してきた与党の王金平立法院院長が、学生側の要求に応じると表明し、学生側はそれを受け入れ、4月10日に立法院を退去してこの運動は終結しました。結果的には学生側の非暴力の運動が勝利したわけです。

 その運動の背景には長い積み重ねがありました。台湾は日清戦争後の1895年から太平洋戦争で日本が敗北する1945年まで、日本の統治下に置かれていました。その時代の建物がいまだに台北の主要な官庁や大学の建物として大事に使われています。その一方で、日本の支配下では日本の言葉や教育の強制、そして徴兵による戦争への動員、米軍による空襲などつらい歴史がありました。その後日本の敗戦とともに、植民地支配からは解放されましたが、今度は中国本土の国民党軍の進駐がありました。その中で1947年2月28日に国民党軍の横暴に抗議する台湾の学生らのデモへの発砲事件が起き、それが全島民の決起につながる「2・28事件」へと広がりました。しかし事件の直後は国民党軍の現地司令官が台湾住民側と妥協し、事態の鎮静化を図ったものの、その直後に戒厳令が敷かれました。さらに中国本土を追われた国民党軍が大挙して台湾に押し寄せる中で、当時の台湾の学生・知識人・医者・政治家などが一斉に逮捕され、ひどい拷問を受け、さらには多くが虐殺・暗殺されるという暗黒の白色テロが起きました。

 台北駅の近くにそれを記念する2・28和平公園があり、記念碑とその過酷な弾圧に関する資料を展示する記念館(日本統治時代のNHKの建物で、2・28事件の第1報のニュースがここから発信された)がありました。これは1987年にようやく戒厳令が解除され、民主化が進み、2000年に長年民主化の抵抗運動を続けてきた民進党が政権を取り、陳水扁総統が誕生してから作られたものでした。この公園の入り口には「国立台湾博物館」もありますが、これもその際に新たに整備されたものでした。その博物館にも台湾原住民の紹介が大きなスペースを占めていました。1987年の戒厳令解除後も、民主化が一気に進んだわけではなく、何度となく学生たちや野党勢力の非暴力の抵抗運動が続けられてきました。それが昨年の大きな学生・民衆運動の下地となってきました。

 台北の総統府の前の広い道路の一つの信号から次の信号までのブロックの道路標識に、「反貧腐(反汚職)・民主広場」の表示があり驚きましたが、これも民進党政権下で獲得されたものでした。ここでは申請さえすれば、自由に抗議行動などで使用できるということでした。繁華街や政治の中枢部では大きな集会をする場所がほとんどない日本の首都東京に比べると、まさに雲泥の差でしょう。日本とはあまりにも違いすぎてついうらやましくなりましたが、それも厳しい弾圧をくぐり抜けて勝ち取られたものであることを思うと、日本の民衆の課題は大きいと痛感しました。

 台湾ではその「ひまわり運動」の終結後にも、台北の近くで建設が進む第4原発(核四)の建設の凍結に向けた抗議行動が続き、昨年の4月26日のチェルノブイリ原発事故26周年には7000名ほどの反原発デモが行われ、そして翌27日には2万人が台北駅前の道路を占拠する大規模な抗議行動が起きました。その結果同夜には馬総統が建設停止を決めざるをえないところに追い込みました。台湾の民衆運動の幅広さとその力量に驚くばかりです。福島原発事故を経てもなお、原発の再稼働という愚かな政府の選択をいまだ止めることができていない日本とは、大きく民衆の意識も行動力も違うと感じました。そういう点で私たち日本の市民が台湾での運動から学ぶべき点がたくさんあるように思います。非暴力運動という点でも台湾の学生たちの活動は極めて実践的で素晴らしいものでした。文化的・芸術的にもたくさんの作品が運動の中から生み出されました。台湾に行く前にひまわり運動について知っておこうと思い以下の本を読んでいきました。とても状況が良くわかるおすすめの本です。

『革命のつくり方 台湾ひまわり運動―対抗運動の創造性』
港千尋:著 インスクリプト:発行

 台湾でも「ひまわり運動」についての本・写真集を買ってきましたが、それらを見てもデザインやユーモアのセンスにあふれた非常に豊かな表現で運動が展開されていたことがわかります。ネットでも多くの動画が公表されていますので、ぜひご覧ください。特に立法院占拠中に台湾の人気バンド「滅火器」が新たに作った歌「島嶼天光(この島の夜明け)」はとてもいい曲です。ひまわり運動に参加した台湾の若者たちの思いがとてもよく伝わります。ひまわり運動の場面と合わせ(当時の現場の様子がよくわかります)歌っている動画は以下です。

https://www.youtube.com/watch?v=iV8JDbtXZm4

 またその歌の日本語訳が字幕で出てくる動画は以下です。これは日本にいる台湾出身の留学生などが、ひまわり運動を支持するために集まった行動の動画で、その中ではひまわり運動の要求内容なども日本語で紹介されています。

https://www.youtube.com/watch?v=KPwAc0JPMTU

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