非暴力平和隊実現可能性の研究【第2章 第4節(2)】
第2章 介入における戦略、戦術、および活動
クリスティーネ・シュバイツアー
2.4 大規模な民間ミッション
2.4.2 性格と目標
2.4.2.1 南アフリカの選挙監視活動
南アフリカの人種差別体制から多民族民主国家への転換のプロセスは1994年の人種差別のない自由な最初の選挙にいたる道のりであった。選挙の前の期間は国内の様々な地域で多くの暴力沙汰で彩られた。選挙の後も暴力は続き、なかんずくKwaZulu/NatalではANCやInkathaの信奉者達がお互いに戦い合った結果、1995年11月の州の地方選挙は1996年6月終わりまで延期することとなった。このことがもう一つの監視プロジェクトを立ち上げるきっかけとなった。
1994年の選挙期間中、NGOも政府間組織も民間の監視員を送り込んだ。最大の監視員を送ったNGOミッションは南アフリカカトリック司教協議会と南アフリカ教会会議が世界教会会議と一緒になって組織した統一キリスト教監視プログラム(EMPSA)であった。このプログラムには1992年から1994年に至まで合計443が参加し、そのうち約2/3は選挙の年に活動していた。3つの監視員のタイプが用いられた。1週間まで滞在する著名人グループ、2週間まで滞在する専門家グループ、そして2から4名の少人数チームで6週間滞在する現地監視員グループである。この期間にはミッションの初めと終わりに際しての準備と報告が含まれている。EMPSA監視員の任務は政治的動機による暴力の監視、その原因の調査と可能ならば未然に予防すること、交渉の過程の監視と報告、そして選挙プロセス全体についての監視と報告である。
もう一つのより大きな監視プログラムが南アフリカの40余りのNGOの上部組織である自主監視ネットワーク(NIM)によって設立された。彼等は1994年の選挙の年に、国内、国外の監視員をチームに編成し、平均5ヶ月間一緒に働くようにして配置した。監視員の主たる使命は4つあった:
- 基本的監視業務即ち、政治集会、葬儀等への立会い、ある程度の短期調査(証人の陳述の収集)
- 危機に際しての介入、例えば、デモの群集が合意されたルートから逸脱する恐れがある時、そして、紛争の活動家達のあいだの調停
- 調査的監視活動、例えば、政治的動機の殺人の背景調査や不法な軍事行動の場所を地図上で特定すること
- 長期的視野での紛争解決のための長期間の調停。
更に、国政選挙の前と選挙期間中、幾つかの政府間ミッションを含めその他の観察/監視プログラムや組織が幾つか存在した。
- 国連は約500人のオブザーバーからなる観察ミッション(UNOMSA)を送り、彼等は1994年3月末までには配置についた。その人数は4月には1485名の選挙観察員が追加されて強化された。
- アフリカ統一機構(OAU)は102名のオブザーバーを送った。
- 英連邦は118年のオブザーバーを送った。
- EUは322人のオブザーバーを送った。
UNOMSAの任務は選挙民の教育についての監視と報告、臨時の投票用紙の交付の監視、個々の選挙管理委員会の投票場所の選定と投票所、開票所の設営についての観察を含む。又、治安部隊が選挙プロセスに関する要件を満たしているかどうかとメデイアへの平等なアクセスがあるかどうかの監視も行う。UNOMSAは更に監視と観察に関連する事項について南アフリカや外国のNGOと調整を図った。
政府間ミッションにより配置されたオブザーバーと国連ミッションの傘のもとで協力した合計人数は2,527名に達した。
1996年、KwaZulu/Natalにある教会連合(the Kwa/Zula Natal-Church Leaders Group-KCLG)は、やがて来るべき地方選挙に関し「統一キリスト教平和をつくるプログラム」と呼ばれるプログラムを組織した。平和をつくる会は単に監視や報告をするだけでなく紛争当事者の間に入り積極的に介入し調停することであった。20名の外国人と80名の南アフリカ人からなるボランテアはKwaZula/Natalの5つの地域にそれぞれ3ヶ月間配置された。外国人は3名の外国人でチームを組んで仕事を始める前に南アフリカで1週間の訓練を受けた。彼等がまずやる仕事の一つは、それぞれ15名の地域の平和活動家を募集し専門化の助けを借りて彼らを訓練することであった。
2.4.2.2 ブーゲンビルにおける平和監視活動
1988年以来、植民地時代を通してパプア・ニューギニアに属していた島であるブーゲンビルでは、パプア・ニューギニア(PNG)からの独立を目指し戦う“ブーゲンビル革命軍”とPNG防衛軍と野間で峻烈な内戦を経験した。パプア・ニューギニアは訓練、装備についてオーストラリアより支援を受け、時によっては休暇には4機のオーストラリア軍のヘリコプターを飛ばして過ごしていると称する“軍事顧問団”にさえも支援されていた。内戦の過程では、PNG側について革命軍と戦う通称“レジスタンス軍”がブーゲンビルに組織化された。内戦はPNGによる島の徹底した経済的搾取(銅採掘)が引き金になったものである。10年にわたる内戦は全人口180,000人の10%以上、約20,000人の命を奪った。50%以上の人々が住むところを失った。インフラは完全に破壊された。村全体が焼き尽くされた。大量の人権侵害――殺人、拷問、強姦、行方不明、などなど――が日常茶飯事となった。
内戦は1997年10月に締結された二つの協定(Burnham・Agreement)と1998年1月の“ブーゲンビルの平和、安全、開発に関する協定”(Lincoln Agreement)によって終結した。交渉は両者が内戦に勝利はないと認識した時に始まり、中立の場所(ニュージーランド軍事基地であるBurnham)が提供され旅行と通行が護られ参加者の安全が保障されることで可能となった。交渉ではブーゲンビルの政治、軍事指導者達は市民社会の指導者達(部族の長、婦人組織の指導者、その他など)と合流した。
これら休戦協定の一環として非武装の休戦監視グループ(TMG)が創設された。ニュージーランド軍の指導の下、ニュージーランド、オーストラリア、フィジー、ヴァヌアツの軍人と民間人からなる約370名が休戦と協定の履行の監視のためブーゲンビルに派遣された。
TMGのすべてのメンバーは武器を携行せず且つ平服をまとったが、それは武装した平和維持部隊は紛争中の当事者から受け入れられないだろうとのことであった。運営は軍隊のインフラや手法を用い、軍隊の規範やルールに従って設定された。今日、要員の大半はLolohoにある建物の一角に設置されたテント内を拠点にしている。本部スタッフは他の町(Arawa)の幾つかの家に宿泊している。そこから、彼等は村のパトロールに出かけてゆく。
3度目の交渉の後?1998年3月、キャンベラーそして4月末からの恒久的休戦の始まりによって、TMGの性格は変化した。ニュージーランドは平和維持軍の調整者としての役割から後退し、メンバーを220人から30人に縮小し、いわゆる“平和監視グループ”と呼ばれるものにした。オーストラリアは、内戦で果たした役割の為いまだにオーストラリアに対する抵抗感があるにも拘らず関係者全員の同意により指導権を引き継いだ。現在、PMGの任務は休戦の監視に加えて和平プロセスを整えることも含まれている。PMGは2000年には人数も縮小されたが尚活動している。
加えて、国連は5名よりなる小さな監視ミッションを派遣している。彼等の使命は監視と協定の実施検証を含むが、本当の価値は和平プロセスに国連が関与しているとの象徴的な意味合い、即ち、ブーゲンビルでの出来事に世界が関心を持っていることを示すものである。
2.4.2.3 コソボ検証ミッション
ほぼ90%をアルバニア人が占めているコソボ州でセルビア支配に対する9年間の非暴力による抵抗の後、過激派アルバニア人グループは武装闘争を選択しコソボ解放軍(UCK)を設立した。これに対するセルビア/ユーゴースラビア警察、軍による大規模な抑圧、特に1998年のそれは、コソボのほとんどの地域を戦禍に巻き込み数十万人の人々が一時的に難民となった。1998年秋(発動命令は既に下されていた)のコソボへのNATOの介入の脅威によって、ユーゴスラブのミロシェヴィッチ政府は最後になってようやくOSCE傘下の非武装“コソボ検証ミッション”の展開に同意した。武装ミッションに比較し、OSCEミッションは、コソボのアルバニア人は武装したNATO平和維持軍の方を好んだろうが、両者により受け入れらるものであった。
OSCEは、1998年11月に約2000人の非武装監視員の配置を開始し、1999年3月20日に引き揚げるまで、ミッションは要員(或は機材)が用意出来なかったために合意された人数に達することはなかった。KVMは、その前の「コソボ外交団観察ミッション-KDOM」に変わるもので、KDOMの要員はKVMに統合された。OSCE検証員の安全はユーゴースラビア/セルビア警察によって保障されることになっていた(「監視員monitor」に代り「検証員verifier」という用語を使うことにしたのは彼等の能動的役割を表現する為である)。しかし、「NATO救出部隊」がマケドニアに待機して配置されOSCEの要員が人質に捕られた場合(1995年、ボスニアで人質事件が起きた後ヨーロッパ人の想像の中でこうしたシナリオが膨らんでいた)或はその他危機にさらされた場合に備えた。NATOは上空のすべての動きを監視する任務も持った。
KVMの任務は次のことを含む:
- コソボ中にプレゼンスを恒久的に確立する
- 1998.10.16のOSCEとFRY間で合意された休戦の監視(国連決議 1199)
- コソボにおける当事者や他の諸団体と緊密な連携を維持する
- コソボで後に行われる選挙の指導、監督
- OSCE常設理事会と国連に報告し提言する
彼等は要請があればセルビア警察の同行し、難民の帰還に際しUNHCR、ICRCやその他の国際機関を支援し人道的援助を行い、ユーゴースラビア当局による人道支援団体への支援を監視し、コソボ自治に関する合意が整い次第合意の実施を支援する任務もある。
ミッションの本部はコソボの首都Prishtinaに置かれた。更に、5つの地域センターが開かれ小さな町や地域には出張所や支援センターが設けられた。検証員チームは出張所を拠点とした。検証員の任務遂行に備えてOSCE訓練センターも開設された。
セルビア軍の撤収に伴い当初の2ヶ月は暴力は減少したが、ミッションは最初から多くの問題に当面した。12月の終わりまでに再び戦闘が始まったが、これは主としてユーゴースラビア軍が撤収した地域に入り込んだコソボ解放軍からしかけられた。OSCEミッションは任務追行が日増しに困難となる中3月まで持ちこたえたがNATOによる空爆が始まる数日前に引き揚げられた。検証員のリスクの度合いを評価することは困難である。NATOの軍事介入に批判的な人の大半は実際に引き揚げる必要はなかったと主張し、KVMの要員を巻き込んだ事故の数は、要員が毎日遭遇する事件の数に比べ少ないとも言っている。OSCEやNATOが恐れていた引き揚げの際の妨害がなんら無かったことはミッションにはまだチャンスが残されていた査証と見ることが出来る。
NATOの役割、特に国連の役割について多くの質問が寄せられている。1998年12月/1999年1月の休戦違反はサーブ側ではなくUCKにあることはKVMの報告を見れば実証されることである。しかしながら、いわゆる“Racakの殺戮”と言われる不可思議な事件が米国や他のNATO指導者(ここでは特に英国とドイツが突出しているが)によって軍事介入を正当化するために利用された。その介入–コソボのユーゴースラビア軍とセルビア、モンテネグロのインフラの空爆――は、ランブイエ(フランス)での新たな一連の交渉が失敗した後、1999年3月から6月にかけて実施された。この戦いは国連安全保障委員会の決議によるものではなくNATO連合諸国の一方的な決定によるものであった。戦争は1999年6月、ユーゴースラビアの停戦によって終結し、コソボに移行期間国際ルール(今は国連安全保障委員会決議に基づく)が設定され、NATOが平和維持活動に当たり国連、OSCE、EUが膨大な民事業務を分担した。
2.4.2.4 エルサルバドルと東チモールにおける国連ミッション
国連監察ミッションは一般に少人数(最大でも数百人)でほとんど軍関係者からなる。彼等は紛争当事者の憲法の最終承認に関しては、地域に亘って公正な代表権を含めて同一の原則とルールに従い、従来からの平和維持活動ミッションに従い自己防衛のためだけに武器を携行する(2.5節参照)。しかし、幾つかの監察ミッションは団員構成が異なり、又、異なった任務をもつが、これについてこの章で述べる。
エルサルバドルのONUSAL(1991-1995)は、10年以上続いているサルバドル政府とゲリラ軍(FMLN)の内戦を収束させる為の停戦交渉が進行中で、まだ締結されていない時期に創設された。かくして、ONUSALは停戦協定に先立ち展開された最初の国連ミッションの一つであった。ONUSALの任務は1991年6月に配置されてから何回か変更された。最初は、当事者が1990年7月の人権に関する協定を遵守しているかの検証であった。この時点でその任務は人権の状況の監視、申し出られた人権侵害の調査、人権の促進、違反を無くす為の提言の作成を含んでいた。ONUSALは予告なしにどこでも訪問することが出来、誰からでも情報を受け取り、直接調査を行いそして課せられた使命の実現のためにはメデイアさえも利用することが出来た。
1992年1月和平協定に調印後、ONUSALは、更に、協定の検証と監視を行うことになった。FMLN軍の解体後は任務は更に拡大され1994年に予定された選挙の監視を行う事になった。ONUSALはすべての選挙当局によって作られた規定が公平であり、自由且つ公正な選挙の実施に矛盾がないこと、選挙民の登録に遺漏がないこと、二重投票を防ぐ為のメカニズムが確立されていること、選挙民が集会の自由、運動や組織の表明に制約を受けないこと、選挙民が有効に参加できるように教育されていることなどを検証しなければならなかった。
ONUSALは当初135名の外国人スタッフで構成されていたが、後に450名に増員され、1993年には900名の選挙観察員が追加された。ONUSALの任務の拡大に伴い当初の人権局に3つの局が加えられた。国家市民警察の創設を支援する為、定員631名の警察局(その定員に達することはなかったが)、380名の軍の連絡将校と観察員からなる軍事局、1993年9月に設立された36名の専門家からなる選挙局である。
人口の大半がインドネシアからの独立を求めている東チモールでの長い紛争は1999年初頭インドネシア大統領ハビビが東チモールの独立を考慮しても良いとの発言により収束するように思えた。前の植民地支配のポルトガルを含めた交渉が引き継がれ、1999年4月、島の将来の形態について東チモールで住民投票(“協議”CONSULTATIONと呼ばれた)を行うことが国連、インドネシア、ポルトガル間で合意された。5月5日の合意書では、当事者は協議の実行の為の治安の諸準備で合意した。インドネシアは法と秩序並びにすべての市民の保護に責任を持つことを保障した。このことは治安の問題はインドネシア警察の手に委ねられたことを意味するが、インドネシア警察の中立性は全くありえないことは明白であった。6月の始め、八月30日に予定され後で9月末まで延期された協議(CONSULTATION)までの期間をカバーするため、安全保障委員会は監察ミッションUNAMETを設立した。UNAMETはインドネシア警察に助言する280名の市民警察官とインドネシア国軍との接触を保つための50名の軍連絡将校から構成された。同様に、460名の国連のボランテア(その内50名は投票監督者)を含め他の国連機関(例えばUNHCR)からの大幅な追加の要員とその他1700名以上の他の監察が住民投票までに集まった。自治権の提案に対する支持者も反対者も運動期間の行動規範にサインした。しかし住民投票前の最後の2週間に比較的平穏な期間の後暴力が再びエスカレートした、民兵が地域の住民を脅迫しUNAMETスタッフは再び脅しを受けた。
住民投票日はほんの少しの事件(一つは国連のローカル要員が刺されて死亡したことだが)で投票はが終わったが、その夜、即ち8月30日、協定で定められた東チモールからの引き揚げを行わなかったインドネシア支持の民兵側の主導で暴力が再び蔓延った。彼等は独立支持者を襲い、家を荒らし村民を攻撃した。監察員は暴力をとめることが出来ず、十分な治安を提供するようにとのインドネシアに対する抗議は全て失敗した。首都のデイリにだけ、UNAMET本部敷地内に避難して来た約2000人の東チモール難民を守るために、92名の国際スタッフ、163名のローカルスタッフ、23名のジャーナリスト9名の国際監察員と2名の国連医療ボランテア等少数のグループが本部に残った。最終的には本部敷地は暴動化した民兵の襲撃に合はずにすみ、2週間後、包囲されていた人達はオーストラリアに救出された。9月15日、その一日後、国連安全保障委員会は武装した第7章平和維持ミッションの派遣を決定、東チモール暫定統治機構(UNTAET)は数日内でさしたる武力抵抗なしに樹立された。これが東チモールの現状である。