資料
2014年「台湾太陽花(ひまわり)運動」の足跡を訪ねて
理事 青山 正
1月中旬に台湾を訪れました。台湾大学で教師をしている旧友との久しぶりの再会を果たすためでした。その時の見聞を元に、昨年春に台湾の学生たちが起こした「台湾ひまわり運動(革命)」について簡単に紹介します。
運動が終わってだいぶ経った今年の2月10日になり、台湾の台北地検は、立法院議場などを昨春占拠した学生ら計118人を民衆扇動や公務執行妨害などの罪で起訴しました。
しかしこの「台湾ひまわり運動」は非暴力の民衆運動として、世界的にも注目に値する規模と成果を獲得した、大変意義のあるものだと実感しました。今回は旧友から説明してもらった台湾の歴史と、主要な日本統治時代の建物(それらの多くが政府の庁舎となっており、そこは「ひまわり運動」の舞台となった場所でした)などを見学して見えてきたことをまとめます。
まずは台湾と中国の間の微妙な関係について感じたことがありました。今回の台湾旅行にあたって、最初は台北にある「故宮博物院」は見学しておこうかと思ったのですが、旧友から「あそこには行かない方がいい」「なぜなら台湾のものは何もないし、見学に来ているのは中国本土からの観光客ばかりで大混雑しているから」とアドバイスを受け、結局「故宮博物院」のすぐ向かいにある「順益台湾原住民博物館」に行きましたが、なるほどと納得しました。「故宮博物院」近くの大きな駐車場は中国本土からの観光客を乗せて来た観光バスがズラッと並んでいました。その一方「原住民博物館」の方はひっそりとしていましたが、台湾の先住民族の生活や文化・歴史が良くわかるものでした。
そして台北の街で何より驚いたというか感心したのが、台湾の人々の礼儀正しさでした。電車に乗る時も、有名屋台に並ぶ時もきちんと順番に並び、また横断歩道の信号も当然に守っていました。地下鉄の車内にある優先席は高齢者や赤ちゃん連れの母親などに若者があたりまえのようにサッと席を譲る様子に、本当に感心しました。
そういう中で、横断歩道で信号を無視する集団は、中国本土からの団体の観光客でした。そういう姿を台湾の人々は冷ややかに眺めているようでした。しかし、台湾の企業が中国に進出するとともに、中国本土から観光客が押し寄せてくることで、台湾は経済的に中国に依存する現実があります。表面にはあまり出てこないものの、巨大な中国に対する反発も大きいと感じました。そういう微妙な中台関係が、昨年の「ひまわり運動」を支えた積極的な民衆の動きにつながっているようです。
その「ひまわり運動」とは、昨年の3月18日に台湾の立法院(日本の国会にあたるところ)を学生たちが占拠して、それ以後585時間あまり続いた抗議運動です。占拠した立法院の議場の演台にひまわりの花が飾られたことに由来して、その後この運動は「台湾太陽花(ひまわり)運動」と呼ばれるようになりました。
問題の発端は前年2013年6月に中国との間で締結された「両岸サービス貿易協定」にありました。中国と台湾とは国家関係としては相互に認めないため、双方の代理機関が協議を行ってきたという経緯があります。それを立法院がチェックして修正なり拒否をしない限りそのまま自動発効となるため、中国におけるような思想・表現・言論・通信への規制が台湾にも「サービス貿易」の自由の名のもとに波及するのを恐れ、それに歯止めをかけるため学生たちは立法院での協議の監督条例の整備を求めていました。しかしその後も形ばかりの公聴会が開かれるのみだったため、学生たちは「黒箱(ブラックボックス)」状態にあるとして批判してきました。それが2014年3月17日に与党の国民党により立法院での委員会の審議が打ち切りとなり、与党は本会議への送付を宣言したため、学生たちの怒りに一気に火が付き、3月18日の大規模な抗議行動と立法院の占拠という事態にまでつながりました。その後3月30日には台北で50万人の大規模集会が行われ、学生のみならず多くの市民も抗議の声を上げる盛り上がりを見せました。象徴となったひまわりの花が産地の台湾南部から何と20万本近くも寄せられたということからも、この運動の広がりがわかると思います。
その後4月6日になり、協定を推進していた馬英九総統と対立してきた与党の王金平立法院院長が、学生側の要求に応じると表明し、学生側はそれを受け入れ、4月10日に立法院を退去してこの運動は終結しました。結果的には学生側の非暴力の運動が勝利したわけです。
その運動の背景には長い積み重ねがありました。台湾は日清戦争後の1895年から太平洋戦争で日本が敗北する1945年まで、日本の統治下に置かれていました。その時代の建物がいまだに台北の主要な官庁や大学の建物として大事に使われています。その一方で、日本の支配下では日本の言葉や教育の強制、そして徴兵による戦争への動員、米軍による空襲などつらい歴史がありました。その後日本の敗戦とともに、植民地支配からは解放されましたが、今度は中国本土の国民党軍の進駐がありました。その中で1947年2月28日に国民党軍の横暴に抗議する台湾の学生らのデモへの発砲事件が起き、それが全島民の決起につながる「2・28事件」へと広がりました。しかし事件の直後は国民党軍の現地司令官が台湾住民側と妥協し、事態の鎮静化を図ったものの、その直後に戒厳令が敷かれました。さらに中国本土を追われた国民党軍が大挙して台湾に押し寄せる中で、当時の台湾の学生・知識人・医者・政治家などが一斉に逮捕され、ひどい拷問を受け、さらには多くが虐殺・暗殺されるという暗黒の白色テロが起きました。
台北駅の近くにそれを記念する2・28和平公園があり、記念碑とその過酷な弾圧に関する資料を展示する記念館(日本統治時代のNHKの建物で、2・28事件の第1報のニュースがここから発信された)がありました。これは1987年にようやく戒厳令が解除され、民主化が進み、2000年に長年民主化の抵抗運動を続けてきた民進党が政権を取り、陳水扁総統が誕生してから作られたものでした。この公園の入り口には「国立台湾博物館」もありますが、これもその際に新たに整備されたものでした。その博物館にも台湾原住民の紹介が大きなスペースを占めていました。1987年の戒厳令解除後も、民主化が一気に進んだわけではなく、何度となく学生たちや野党勢力の非暴力の抵抗運動が続けられてきました。それが昨年の大きな学生・民衆運動の下地となってきました。
台北の総統府の前の広い道路の一つの信号から次の信号までのブロックの道路標識に、「反貧腐(反汚職)・民主広場」の表示があり驚きましたが、これも民進党政権下で獲得されたものでした。ここでは申請さえすれば、自由に抗議行動などで使用できるということでした。繁華街や政治の中枢部では大きな集会をする場所がほとんどない日本の首都東京に比べると、まさに雲泥の差でしょう。日本とはあまりにも違いすぎてついうらやましくなりましたが、それも厳しい弾圧をくぐり抜けて勝ち取られたものであることを思うと、日本の民衆の課題は大きいと痛感しました。
台湾ではその「ひまわり運動」の終結後にも、台北の近くで建設が進む第4原発(核四)の建設の凍結に向けた抗議行動が続き、昨年の4月26日のチェルノブイリ原発事故26周年には7000名ほどの反原発デモが行われ、そして翌27日には2万人が台北駅前の道路を占拠する大規模な抗議行動が起きました。その結果同夜には馬総統が建設停止を決めざるをえないところに追い込みました。台湾の民衆運動の幅広さとその力量に驚くばかりです。福島原発事故を経てもなお、原発の再稼働という愚かな政府の選択をいまだ止めることができていない日本とは、大きく民衆の意識も行動力も違うと感じました。そういう点で私たち日本の市民が台湾での運動から学ぶべき点がたくさんあるように思います。非暴力運動という点でも台湾の学生たちの活動は極めて実践的で素晴らしいものでした。文化的・芸術的にもたくさんの作品が運動の中から生み出されました。台湾に行く前にひまわり運動について知っておこうと思い以下の本を読んでいきました。とても状況が良くわかるおすすめの本です。
『革命のつくり方 台湾ひまわり運動―対抗運動の創造性』
港千尋:著 インスクリプト:発行
台湾でも「ひまわり運動」についての本・写真集を買ってきましたが、それらを見てもデザインやユーモアのセンスにあふれた非常に豊かな表現で運動が展開されていたことがわかります。ネットでも多くの動画が公表されていますので、ぜひご覧ください。特に立法院占拠中に台湾の人気バンド「滅火器」が新たに作った歌「島嶼天光(この島の夜明け)」はとてもいい曲です。ひまわり運動に参加した台湾の若者たちの思いがとてもよく伝わります。ひまわり運動の場面と合わせ(当時の現場の様子がよくわかります)歌っている動画は以下です。
またその歌の日本語訳が字幕で出てくる動画は以下です。これは日本にいる台湾出身の留学生などが、ひまわり運動を支持するために集まった行動の動画で、その中ではひまわり運動の要求内容なども日本語で紹介されています。