非暴力平和隊・日本

スリランカ通信(15)2004.2.29

スリランカ通信15号/ラトゥナプラでの監視

2004年2月29日
大島みどり

この通信は私の個人的な感想や考えを述べたものであり、Nonviolent Peaceforceあるいは非暴力平和隊・日本の公式見解を示すものではありません。転載・転用をご希望の際は、筆者あてご連絡ください。

みなさまへ

3週間ぶりに便りを書くかと思えば、1週間でお送りする気まぐれをご了承ください。
選挙前監視の活動にご興味をお持ちの方への報告を、早めにしたかったのと、今週は、明日(月曜)から3日ほどプロジェクト・ディレクターのウィリアムがマータラを訪れる予定のため、今日を逃すとまた報告が遅くなってしまうかもしれないことを心配したためです。

通常の活動ではなかった1週間の、煩雑な会計処理をなんとか終え、ほっとしているところです。細かい支出を憶えて置くのは比較的苦ではないわたしでも、チームの3人が別行動をし、1週間でレシートの数が80近くにのぼると、会計報告の入力から各人への精算、残金確認にいたるかなりの仕事量に、疲れました。お金を預かる仕事は神経を使います。

ではラトゥナプラでの候補者締切日に関する監視報告です。

23日月曜朝にNPのパートナー団体のPAFFRELに行くと、各地域を担当するリエゾン・コーディネータという方々が集まっていて、すぐにでもラトゥナプラとキャンディに出発できる状態が整いました。バンが2台しかなかったので、方角はちょっと(だいぶ?)違うのですが、ラトゥナプラ経由でキャンディに向かうというのです。(もう1台は、プッタラム方面へ。)

わたしは実はその日に日本大使館を訪問する予定になっていたのですが、そんなことは言っていられません。慌てて都合を変えていただく電話をかけ、そのままキャンディに行くRita、ラトゥナプラとキャンディのそれぞれのPAFFRELリエゾン・コーディネータふたりとともにバンに乗り込み、ドライバーの運転でコロンボを発ちました。

PAFFRELのリエゾン・コーディネータたちは、どうやら多くが、大学生か大学卒業したてのとても若い男性達です。(そしてなぜか??ハンサムな人たちが多いのです!)ただ彼らのほとんどは英語をあまり話さないので、コミュニケーションにちょっと(かなり)問題がでます。

もちろんこれは彼らの問題ではなく、シンハラ語を話さないわたしたちの問題です。早くことばをなんとかしなくては・・・という焦りがたびたびわたしを襲います!(彼らがハンサムだから、というわけではありません!)

11時過ぎにコロンボを抜け出たバンは、1時半近くにはもうすでにラトゥナプラの入り口まで来ていたのですが、そこで道が大渋滞!なんと大統領が所属する連合政党のサポーターの車が列をなして町中そして町を囲んで応援を繰り広げているのです。目印は、赤と青のリボン、旗、青の帽子です。どうやら近隣あるいは遠方からバンやバスを借り切って候補者申請所(日本では何と呼んでいるのでしょう?すみません、無知で)のあるラトゥナプラに押しかけているようです。PAFFRELがパートナーを組み、ラトゥナプラでの窓口となっている団体の事務所は街中にあるのですが、そこにたどり着くまでに、なんと1時間近くも掛かりました。

その日は時間も遅かったので(昼食をとりに行くのにまた時間がかかりました。スリランカでは、なにごとがなくても、すべてのことに日本の倍くらいの時間がかかると思ってほぼ間違いありません)、残念ながら行政の関係者の人々にはお会いできませんでした。

翌24日はいよいよ候補者締め切り最終日(午前中)です。朝8時過ぎにひとりで街中を探索していると、すでに人々が町の中心に集まり始めていました。わたしの目の前にふたりの若い男性が走り出してきて、塀に張られているある政党候補者のポスターの上に、ベタベタと糊をつけ、あっという間に別政党の候補者ポスターを貼り付けました。あまりのスピードにわたしはあっけにとられてしまいましたが、彼らはじぶんたちの仕事に集中していて、わたしが通せんぼをくらい、目を丸くしているのにさえ、気がつかないようでした。あとで、リエゾン・コーディネータにこの話をすると、こうした行為は当たり前だという返事が返ってきました。

この日のサポーター凱旋は、首相の所属する政党。目印は緑色のリボンと旗、そして帽子です。昨日同様、バスやバンの屋根にのぼり、あるいは窓から身を乗り出し大声で宣伝をする男性達が、町を占拠していました。もう驚きも越したわたしですが、もし彼らがじぶんたちの仕事に忙しかったら、こんなことをしている時間はないだろうに…と思うと、政治と経済が直結しているこの国の人々の在り様に、心痛みました。

選挙時になると人が変わるという話はスリランカを知る知り合いのほぼ全員から聞いていましたが、その一端を垣間見た思いでした。でも、それがどうして起こるのか、それにはいくつもの複雑な理由があり、そしてそれらの理由も一緒に解決して行かない限り、暴力も紛争もなくなることはないでしょう…。

PAFFRELのパートナー団体に行き、ラトゥナプラのこれまでの様子を訊いた後、リエゾン・コーディネータとパートナー団体の活動を手伝う元行政オフィサー(77歳!)とともに、、ラトゥナプラのDistrict Secretaryに会いに行きました。(District Secretaryというのは、日本で言うと県知事くらいになるのでしょうが、規模は比較にならないほど小さいです。)

スリランカにある25(ときどき数え方も異なるようですが…)のdistrictのうち、数えるほどしか居ない女性のsecretaryは、立候補申請締め切り直後でかなり疲れた様子でした。自己紹介をした後、短めにラトゥナプラのこれまでの選挙に関する事件などについてうかがいましたが、幸運なことにラトゥナプラではまだ大きな事件は起こっていないとのことでした。けれど、これまでの選挙でも暴力事件は起こっているので、外国人が監視団に加わることを歓迎すると話していました。

今回のわたしたちの派遣については、暴力事件や揉め事の監視自体もさることながら、まずわたしたちの存在をアピールするということが最大の使命だったので、選挙直後の忙しい時間に詳しい聞き取りなどをすることは避け、選挙監視のコミッショナーを含む関係者数人にお会いし、自己紹介をさせていただいた後、帰ることにしました。

実際PAFFRELも、また地元のPAFFRELパートナー団体も、選挙前のこの時期に外国人監視を受け入れることは、これが初めてのことだったので、わたしたちのためになにをすれば良いのか、コーディネートもなにもないというのが、日本的に見た実際のところだったのですが、そこはスリランカ・スタイルを受け入れ、『なんでもOK,なにがあっても驚かない、焦らない、なるようになる』とどっしり(?)構えることにしました。

わたしたちの活動は、第一にスリランカの人々が、自らのために、自ら行動するのをサポートすることで、じぶんたち(個人あるいはNP)のために、すばらしいレポートを書くでも、聞き取り調査をすることでもないというのが、わたしの信条です。主役は彼ら、わたし(たち)は、あくまで縁の下の力持ちです。(わたしの過去?の仕事をご存知の方はあまりいらっしゃらないと思いますが、わたしの大学での専攻は演劇で、それも裏方でした。国際協力の仕事にたどり着くまでは、ずっと芝居の裏方をしていました。実際国際協力の仕事に移っても、いつも裏方をしていたように思います。見えないところにいるのが好きなのです!)

そういうわけで24日は4時にラトゥナプラでの仕事を終え、PAFFRELリエゾン・コーディネータとバスでコロンボに戻りました。とくにたいした仕事をしたわけでもないのですが、一日中頭痛があったせいもあって、夜7時前にNPのオフィスに着いたときは、かなりぐったりしていました。

25日は変更していただいた日本大使館でのミーティング(PAFFRELとNPの仕事、選挙に関する仕事について)を午前中に終え、夕方までにマータラへ帰り着きました。そして地元マータラでのいくつかのミーティングやシンハラ語クラスの合い間を縫って、26日にPAFFRELとNPへの報告書作成、27・28日は会計報告作成に時間を費やしました。かなり忙しい1週間でしたが、充実していたように思います。

いまは、これからいつラトゥナプラへ戻るのかなど、予定の連絡を待っているところですが、ラトゥナプラへ行き、人々にお会いしている手前、できればもっと長くあちらに滞在したいという思いと、マータラでも選挙前の監視やその他の活動をしていきたいという思いが、交じり合い、複雑な心境です。

とにかく、どこに居ても、できることをできる限りし、4月2日の選挙が、自由で公正に行われるよう、またスリランカの人々が彼らの将来のために熟考した投票を行うよう、心から祈るばかりです。

スリランカの人々の、政治と選挙に対する責任と自覚をより高めるためにも、日本のみなさまのご関心とご声援はとても役に立つと思います。ぜひメッセージをお送りください!(選挙監視に来てくだされば、さらにすばらしい!PAFFRELも個人の参加を大歓迎しています!)

1日得をしたのかどうかよくわからない、うるう年の2月29日に。

大島みどり

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